カラマーゾフの妹 高野史緒
まず最初に。父親殺しの小説、それがカラマーゾフの兄弟です。
この本はドストエフスキーが畏怖してきた暴君の父親がテーマになっている。
彼の父親は実際に殺されています。
ドス氏は父を憎み、父を軽蔑し、父を怖がり、そして父を愛してきた。
その4つの感情が、4人の登場人物に反映されている。
この4人こそがカラマーゾフの兄弟なのです。
つまり4兄弟はすべてドス氏の分身なのです。
本作の「カラマーゾフの妹」には、さらに4人のほかにもう1人の兄弟がいた、という設定になっている。ちなみに私は本家の「カラマーゾフ」は読むたびに抱腹絶倒しています。ドス氏が描く「ホフラコワ夫人」や「白痴」のリザヴェータ夫人など、ドス氏はこういうキャラをユーモアに描くのが抜群にうまい。「妹」は登場人物が同じでも、ユーモアのセンスが欠けているのが残念でした。本家ではイワンですら気の利いたジョークを言う。(アリョーシャにキスされて盗作だぞと叫ぶシーンなど)しかし、それはそれとして、「妹」は大胆不敵な本家の続編でありながら、非常にまじめな推理小説だと思いました。
意外な犯人、という前提で考えると
清らかな性格の持ち主で、誰からも好かれるアリョーシャが犯人だろ?
と思う読者はきっと多いはずです。そしてその通りなのです。
だから特に衝撃は受けません。しかし伏線が意外と多い。
イワンの二重人格だとか三重人格というのも
イワンを犯人だと思わせようとしての手段だと思う。
謎解き重視の映画や推理小説では、ときどき、犯人を捜しているはずの主人公が実は多重人格者で犯人だった、というおきて破りのオチがある。また、足の不自由なリーザを犯人に思わせようとする大胆な試みも面白いアイデアだと思った。
結論を言うと、作者はアリョーシャを犯人にした。
私が思うに、この作者はカラマーゾフの兄弟を何度も読んでいるうちに
アリョーシャのような聖人君子なんて世の中にいるわけねえだろうがっ!
と不満を持ち続けてきたに違いない。
たしかにそうだ。私もその考えには賛同する。
白痴のムイシュキン公爵は、白痴ゆえに自意識が存在せず、美しい人間になりえたわけだが
アリョーシャは自意識がある。
自意識があって無条件に美しい人間などこの世に存在するはずもない。
偽善に違いない。
とはいっても、アリョーシャファンは多い。
そんな読者を挑発するがごとき、アリョーシャを連続殺人魔に仕立て上げた。
しかもゾシマ長老を殺したのもアリョーシャに仕立て上げている!
見事だ!ここまでやってくれると逆に痛快だ。
おそらく本家の愛読者であった作者は
ついにその続編を描くことにより、日ごろの鬱憤を晴らしたのだ。
説得力はあった、と思う。
殺人の最大の動機は、「正義」である。
「罪と罰」でラスコーリニコフが考え出した犯罪哲学とある意味では似ている。
大いなる善行を行おうとしている人間は、たった1つの犠牲など気にも留めない
ということです。
つまり愛する兄弟を救うために何のためらいもなく父親を殺害した。
アリョーシャの強すぎる正義感と強固な精神力がそれをさせたのだ。
ラスコーリニコフは殺人後、精神が崩壊した単なる凡人だが
アリョーシャはナポレオンの素質があった、ということである。
皇帝暗殺、といアグネードも「大いなる善行」の1つとして描かれておりロシア国民を救うために、皇帝の命を奪おうとするアリョーシャの「正義」がいかに狂信的なのかを読者に訴えかけている。そして皇帝と父親を対比させており、アリョーシャには正義を実行するために、彼らを殺す動機があったのだと暗示させているのだ。
足が悪いから妻を愛する、しかし足が治ったら愛が冷める
というアリョーシャの「慈善」も皮肉っている。
よほど作者はアリョーシャの「偽善」が嫌いなのだろうか、
アリョーシャの末路はさらに悲惨だ。
両足と右腕を失い、左腕のひじから先、そして右目を失い、
脳に損傷があり言葉もしゃべられない人間にしてしまっている。
私には見事としか言いようがない、素晴らしい小説でした。