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なぜリスベットは他人から憎まれるのか?
それは「女」だからです。
女であるという理由だけで男は女性を憎むことができる。
たとえば殺人の9割は男だというのに
たった1割の女性が人を殺したら鬼の目を取ったがごとく、男たちは騒ぎ出す。
鬼女!魔女!とまで言い出す始末だ。

男が犯罪を犯したら「犯罪者」と呼ばれるが
女が犯罪を犯したら、なぜか「女犯罪者」と呼ばれ、悪魔かよ!と叫ばれる。
しかも女性が弁護士や学校の先生になっていると
わざと女弁護士、女教師と、固有名詞をつけて差別する。
何よりも腹ただしいのは、女性が強いと、「女のくせに」という雰囲気になる社会の風潮である。

「女のくせに」という言葉の裏には、「弱いくせに」という言葉が隠されていることを忘れてはいけない。

つまり、弱いから大人しくしていなさい、

弱いのに男に逆らうのはけしからん、

弱いのに犯罪するなんて許せない。

そうやって憎むのです。
男というのは、弱い存在の生き物を、支配することが本質的に好きなのだ。
そもそも妻が夫のことを「主人」というのはおかしい。
それこそ男女差別の本質でしょう。男女は支配関係ではないのだ。
男は、服従しない女を心の底から憎むのだ。

夫から「お前」と呼ばれている妻は、反対に夫を「お前」と呼んでみるといい。
きっと、男たちは、女性からお前と呼ばれたら、怒るだろう。
しかしなぜお前と呼ばれている相手に対してお前と言い返してはいけないのだ?
よく考えてほしい。男は女性を格下だとみている証拠なのだ。


もちろんミカエルのように、女性と同等の立場で接する男もいるが
大抵の男は心のどこかで「女のくせに(弱者のくせに)」という思いを持っている。
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ミレニアムのメッセージである「女を憎む男たち」とは、すなわち男社会そのものをさす。

わが国では女性が天皇になることすら許せないという風潮があり
さらには女性が土俵にあがるのは不潔で汚らわしいという思想が
いまだに残っている。挙句の果てに政治家は、女性のことを「子供を産む機械」だとのたまうのだ。
そんな狂った国だ。

しかも日本はレイプや痴漢が横行しているにもかかわらず
たった0.1%の痴漢の冤罪者を取り上げて、99.9%の痴漢の被害にあった女性を
被害妄想の嘘つきだと中傷しているというとんでもなく国なのだ。
私は絶対にそれだけは許せない。本当に悔しい。
(冤罪はたしかにある、しかしそれでも99%の被害者女性を加害者扱いしていいのか??)
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また外国ではレイプされた女性が、レイプされた罪で死刑になったこともある。
理由は、男にレイプされた淫らな女だからだ。いや冗談じゃない、本当なのだ。
日本でも同じことがある。
ここまで露骨ではないが、レイプされた妻にたいして夫が「淫売女!」と叫んで殴るのだ。
このことは男が、女性を、所有物としか見ていないことを意味する。
自分の「物」が汚された、という理由だけで、レイプされた女性を憎むのだ。
夫が死んだら妻は焼き殺される国も昔はあった。

私が何を言いたいのかわかるだろうか?

リスベットの存在は虐げられてきた弱き存在の隠喩なのだ。
以下のようなコメントをする男たちは、リスベットも絶対に憎むだろう。

(痴漢された女性を、逆にAV女優の淫乱女だと罵る男たち)
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(痴漢された女性を、逆に名誉棄損で訴えろと叫ぶ男たち)
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レイプされたり、痴漢された女性は、むしろ男たちの敵として憎まれるのだ。
お前らがレイプしておいて、なにゆえに憎むのだ?冗談もたいがいにしろと言いたい。
「女たちが淫乱だからレイプされる」というとんでもない思想はぜったいに許せない。
しかしそれが暗黙の了解でまかり通る腐った世の中である。

こういう男たちが、ミレニアムを読んだら、おそらく発狂するに違いない。
バカ男たちはリスベットを心の底から憎むはずだ。
だから私はミレニアムが好きなのだ。
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芥川賞候補になるためには、下読みたちに好かれなくてはいけない。
なぜか舞城は下読みたちに好かれている。
しかし芥川賞の選考委員たちが文句をいう。
そしてこう言う。「下読みはしっかり仕事をしろ!」

私自身、舞城の阿修羅ガールを読んで、怒りのあまり、発狂しそうになったことがある。
私を心底怒らせたのは、もちろん、舞城の描いた「うんこパン三世」の記述である。
三島由紀夫を中傷した罪は限りなく重い。

しかし今回、芥川賞候補作「ビッチマグネット」は大変面白かったです。
当然のことながら舞城は心に傷を抱えた女性である。
(私と数人の読者だけがその真実を知っている)
彼女は男に対する不信感が強い。その男とは当然のことながら父親を意味する。
ドストエフスキーが父親殺しの小説で、文豪の地位を確立したように
彼女もその屈折した思いを文学へぶつけることによって昇華させている。
彼女の描く家族愛なるものは、現実では救えなかった己の家族を
小説のなかで救おうとしている行為に他ならない。



子供が親から受ける心の傷について。


子供はその心の痛みを「なかったこと」にしてしまうことがある。
本作品の主人公もそうだった。どうやって「なかったこと」にしたのかといえば、
親が不倫を犯そうが
失業しようが
殺人を犯そうが
自分には関係ない。自分には関係ない。自分には関係がない、と必死で自己暗示をかけること
それによって自分の心が、親から傷つけられることを、一時的に避けることができる。
しかしそれは心から血が出なだけで、じつは内出血をしている。
いずれ大人になったとき、その時の内出血が原因で苦しむことになる。

これをトラウマという。

主人公は気が狂ったように弟を殴るシーンは、心の傷が表面に表れたことを意味している。

人間はダメージを受けた場合、それが肉体的なダメージであろうが精神的なダメージであろうが
ちゃんと「痛い、苦しい」と泣いたり叫んだりしたほうがいい。
それを「なかったこと」にしてしまうと、心が内出血を起こす。
そうなると、後々、もっと大変なことになる。
弟の家族論と姉の家族論、どれも作者の思想だ。
いずれにせよ、人間の心を一番傷つける存在はやはり「家族」なのだ。
家族愛、家族は素晴らしい、しかし家族愛こそ人間の心に致命傷を与える。
愛しているからこそ心が傷つく。
それを回避する方法は、宗教に走るか、自殺するか、小説を書いて自分と向き合うか。
そのいずれかでしかないと思います。
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芥川賞受賞作品です。どういう内容か一言で言います。
主人公は、お母さんが大嫌いだ、という話です。こういう作品は、芥川賞好みです。純文学の頂点に立つと言われるドストエフスキーの最高傑作「カラマーゾフの兄弟」だって、一言でいえば、どうしようもない父親と、それを憎む息子の話です。この作品は、どうしようもない母親と、それを憎む娘の話です。
テーマは重いですが、やはり現代人の心の暗部には響く。
殺人事件の、約4割近くは、親族内で起きていることからも分かるように
つまり共感できる部分がどこかにある。


日本人は我慢して、我慢して、耐えようとするところがある。


そうやって家族に対する憎しみを、ますます蓄積していく。

この小説を読んでいて、やはり一番印象に残ったのは、
主人公が、なぜ家族(母親)から離れようとしないのか?ということに尽きます。

彼女は、「暇で死にそう」
という母親から電話がかかってきても、歯を食いしばって耐えるのみ。


そうやってますます自分の心の中で、母親に対する憎しみを募らせている。

この小説で繰り返し、聞こえてくる主人公の母親に対する心の罵倒
「低能な女」
「昔の栄光に浸っている哀れな女」
「努力をしないでお金を欲しがる図々しい女」

第三者の読者の立場で言わせてもらうと、それはもはや愚痴に近い。

それだったら、空中庭園で小泉今日子が言い放った名せりふのように
「お母さん、暇なら、もう死んじゃえば?」と言えば良い。
そうすれば母親は、親不孝な娘だと怒るかもしれないが、
母娘の関係に変化が起きるはずだ。
それができないのはこの女性(すなわち作者)が偽善を抱えているからだと思う。


家族だから縁が切れないという発想が、勝手に自分を追いつめ、憎しみだけが蓄積され
いつしかそれが大爆発を起こし、その結果、家族内で誰かが殺されることになる。

強盗殺人よりも、家族殺人が多いわけは、まさにこの小説の主人公のように
そこから脱出しようと思わない、または脱出できない、もしくは脱出してはいけないことだ
と思い込むことに原因があるのだと言いたい。


また、エゴの化身である母弟に対して、エゴの欠片もない白痴の夫が対比して描かれている。
しかし、白痴なのに愛にあふれていたフォレストガンプや、ムイシュキン公爵とは違って、
この夫は、妻も妻と認識していないような、愛という感情が欠如しているような、人形のような人間のように見えてしまう。
従ってこの小説で説明されている「知らない人からも自然に愛される人物」としては、物足りなさを感じる。

しかし、夫の白痴化が、母弟からの、1つの脱出手段であった点も見逃せない。

印象に残ったのは、主人公が、そんな夫を愛しているという心理描写が、随所に散りばめられている点です。主人公はそんなに「いい人」なのか?と疑ってしまう。
好意的に読むと、常に自分は、より良き人間でありたい、という信念があるのかもしれない。

しかし私には偽善とうつる。
少なくとも、このような主人公の潔癖的な性格が、ソドムの住民たる母親や弟のふるまいに対して、ことさら許せないと思うのかもしれません
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(小説)
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(映画版)
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あえて舞台設定を未来にせず、過去に設定。つまりこれはSFではありません。
クローンは、わずかしか生きられない人間のメタファーになっていることに気が付いてください。

だから、「整形して逃げればいいじゃん」だとか

「人権弁護士に助けを求めろよ」だとか、

そんなことを言っても意味はないのです。

テーマは「生」です。
では「生」とはなんでしょうか?
坂本竜馬はこう言った。

「この世に生を得るは、事を為すにあり」

つまり、生まれたからには、何かでかい事をやってみろよ、と言う意味です。

さらに自意識の強い若者はこう言う。

「僕は何のために生まれたの?生きる価値って何かなぁ?」 

この映画で、限りある生のなかで、必死で生きている3人の姿をみてください。
そして気が付いてください。
生きているということは、ただそれだけで素晴らしいということを─。

何も成し遂げなくてもいい。

ただ生きているだけで嬉しいと思う気持ち。

その実感こそが、幸せと呼べるのではないでしょうか?
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悲しいことに、人間は、死が目の前に迫らないと、生を実感できない。
体調を崩したとき、はじめて、健康のありがたみに気が付くのと似ている。
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1つ説明したいことがあります。
新任の女教師が、義憤から真実を子供に打ち明けるシーン。

「あなたたちは臓器を提供するために生まれてきた」 

校長は女を追放する。真実を隠そうとする悪そうな校長に見えますが
彼女は、クローンにも魂があることを証明したかった、ゆえに子供に絵を描かせていた。
校長にとって、生きる、ということは、表現することだった。
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子供に真実を打ち明けることは

「あなたたちは人間ではなく、人間のために育てられている家畜なのです」

と宣告することに等しかった。
その時点で子供は、「ニンゲン」であり続けることに、挫折していただろう。

ヘールシャム寄宿学校は、当初は悪魔の巣だと思った。
だが、じつは人間と認められないクローンを、唯一人間として教育してきた場所だった。
3人はそこで感受性豊かな人間として育てられ、恋をして、むしろ本当の人間より、生を実感していた。

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子ども時代のトミーはひどかった。
しかし、大人になった彼は、自分を表現できるようになった。
彼から絵を見せられた校長は辛くて嬉しかったに違いない。

そしてこれがこの映画の最大のメッセージなのだ。

トミーはまぎれもなく人間だった。いや人間以上に人間だった。

かなしいくらいに素晴らしい映画です。






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# by _hanako311 | 2012-10-25 21:34 | 映画(6)
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当然のことながら、「超然」とはなんだ? と読者は思うでしょう。

キャッチコピーでは、超然とは、パッション(受苦)である、と説明されていますが
これだとますます意味不明じゃないでしょうか?

そこで私なりに、「超然」の意味を、みなさんに説明させていただきます。

超然とは、平然のパワーアップバーションだと考えてください。

では平然とはどういう意味か?
何事もなかったように落ち着き払っている、という意味です。

「妻の超然」とは、夫の不倫ぐらいで、妻たるものがオタオタするな、とも解釈できますね。

「超然」の考え方は、ベストセラーにもなった「鈍感力」の考え方にもつながります。

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小泉純一郎元首相が、安倍元首相について「鈍感力が大事だ。支持率が上がったり下がったりするのをいちいち気にするな」と発言した、と報じられました。

つまり小泉氏は安倍さんに、超然としなさい、とアドバイスを送ったのです。

しかしである。超然というものは、やせ我慢なのだ。
やはり人間は、つらいものはつらいのです。
超然とは、どんなに辛くても平然と耐えなさい、という意味にもとれる。

それがキャッチコピーにある「受苦」とつながってくる。

「作家の超然」 これは実話です。作家=絲山さん。

2009年7月に作者は自身のホームページで腫瘍ができたことを報告しています。

以下、作者の病状報告

・神経の腫瘍。
・今後、良性か悪性かを判断するために検査をしていく。
・位置的に切除すると後遺症のリスクがあるため、良性であれば温存、経過観察が望ましい。
・良性でも障害が出てきた場合は切除。
・悪性の場合は後遺症のリスクを含め切除。
・このあとの検査は、CT、細胞診、PET

この本が2010年に発行されたところをみるとすぐネタにしたことがわかります。

以下、本部から抜粋

病室は電車や飛行機のような乗り物である。ずっとそこにいると決めていたら耐えがたいだろうが、移動という目的があるから落ち着いていられるのだ。元気になるという到着地を考えてわくわくしている者もいれば、いつまで続くか分からない移動にうんざりしている者もいる。そしてもっと行きたくない場所だってあるのだ。患者という細胞を取り込んでは吐き出す病室。細胞であるお前たちは病室という乗り物に乗って移動している。そもそも生きること自体が移動ではないのか。お前は知っている。悩んだときは道に迷えばいいことを。

よほどの読書通じゃないと何を言っているのか理解できないと思います。
ようするに作者は、超然としようと考えていたのです。
それがこれらの文章からうかがえます。そうやって読み進めてください。
しかし、超然とはやせ我慢ですから、
やはり作者の病気に対する不安や怯えというものが、ひしひしと、文章から伝わってきます。
その不安が、厭世観や諦念とつながって、なぜか非常にレベルの高い文章へと昇華していました。

やっぱり文学の原動力は「不幸」「悩み」「絶望」なんだな、と思わざるえません。

狂気というものは、近い将来化学式のように書いて説明できるのではないか、それほど法則性と親しいのだ。楽器を弾くことも、絵を描くことも、セックスをすることも、夢を見ることも、自分を見失うという意味では小さな狂気だ。孤独死を発見する人は不快でつらいだろう。だが、本人にとってそれは本当に悔いの残る死に方なのか。孤独死とはある意味自然死だ。

延々とこんな感じで続きます。

作家の超然に比べて、妻の超然は好きじゃない。なぜなら綺麗にまとめすぎているから。
あんな馬鹿夫、くたばればいいのに、あんな夫でも愛しているよ、で終わらせているところが
超気に食わない。妻の超然は、映画化されるかもしれない。それほど娯楽臭がする。
しかし、作家の超然は、見事な純小説に仕上がっている。
好みの問題かもしれないが、私は作家の超然をおすすめしたい。
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