カテゴリ:五木寛之(3)( 4 )

e0065456_20243834.jpg「この世に永遠に生き続けるものなどありはしないのだ。我々がいつか死ぬ事を知っていると云う事は、我々が天から授かった素晴らしい贈り物なのだよ」



死は怖いけど、否定するのではなく受け入れなくてはいけないというメッセージがあると思います。もっと別な例で説明するならば、「春」の素晴らしさは「冬」があってこそ、実感できるのだ、ということにも通じる。冬がなく春だけの完全な世界がもし存在すれば春のありがたみを実感することはできなくなる。ようするに、幸せや歓びや生きる充実感は、苦悩や悲しみや死が存在してこそ、はじめて感じることができる感情だということだと考えます。だから死や不安を否定してしまうと、生や歓びまで否定することにつながります。


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最近気がついたことですが左の作品はゲドに大きな影響を受けていることが分かりました。
「世界の終わり」という世界は主人公の脳内に出来上がった完全なユートピアになっています。そこでは一切の悲しみや悩みが存在しません。いわゆる「完全な世界」と呼ばれているのですが、その理由は「こころ」を人間から抜き取った世界だからです。だから悲しむこともないし絶望して自殺することもない。そのかわり喜びも感動もない。そういう世界です。
アレンは、悲しみや悩みがあまりにも辛すぎるために、「こころ」を捨て去ったのです。それが「影」の正体です。



「かなしみのない自由な空へ翼、はためかせ、飛んでいきたい」という有名な歌がありますが、悲しみがなければ喜びもないというのが映画「ゲド」のメッセージの1つなのだと思います。「ドラゴンヘッド」という漫画を昔読んだことがありますが、あれも同じでした。世紀末の世の中では人間は恐怖を取り除くために、脳を手術して、恐怖や不安を取り除いてしまうという。


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しかし人は本当に絶望してしまうと、脳を手術しなくても、無意識のうちに感情のスイッチを消して不安を消してしまうことがある。アウシュビッツの収容所の中の人間心理を描いた「夜と霧」という本のなかでそれが描かれていました。

この本は絶対に一度は読んだほうがいいです。
特別な環境の、特別な人達(ユダヤ人)だけの話ではありません。
すべての悩める人間たちにとって、真実を語っています。


現代社会においても、不安やストレスに押しつぶされそうになった人は感情のスイッチを自動的に消してしまいます。悲しみはそれで免れる。しかし同時に喜びもなくなる。

それを鬱状態というのだと思います。

特に難しい問題は、悲しみや心の苦痛を感じたときに、それを無意識のうちになかったことにしてしまうことです。わたしにはよくありました。私の場合は両親が離婚したとき、私は両親の子供ではないと思い込み、他人事のように家の様子を眺めていたので悲しみはまったくありませんでした。その方法で私はストレスがたまりそうになると、いつも第三者になって遠くから眺める癖がついてしまいました。

子供のころに辛い目にあったことを思い出すのは苦痛なので、記憶から消してしまうと、将来のトラウマへとつながっていきます。辛いことを辛いと自覚せずに大人になるのもすごく良くないことです。だから哀しいときや辛いときは、それを避けようとしたり、否定しようとするのではなく、思いっきり悲しめばいいし、泣けばいいのです。そうすればトラウマにはなりません。


泣くというのはすごく大事なことです!!


つらい、くるしいと悲鳴をあげればいいのです。


絶対につらかったことを「なかったこと」にしてはいけません。


怪我をすると肉体から血が出るのと同じように心を痛めたら泣く。もし怪我をして肉体から血が出なければ内出血しています。これは良くない状態です。つまり泣かないということは内出血と一緒なのだと思います。
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作者は何度か自殺未遂の経験があります。そのために「不安」を解消するための哲学をつくりだしました。結論からいうと、不安は避けるものではなくて受け入れるものだということでした。わたしも、弱い人間ですので「不安」に対する対処方法は、ずっと考えてきました。そのことを、最近みた映画「ゲド戦記」を例にして、話していきます。
この映画は実は偉大な父親(宮崎駿)を持つ息子(宮崎吾朗)の苦悩が描かれています。監督がいかにして「不安」を克服したかをメタファーを用いて告白してます。


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テルー「あなたは死ぬのが怖いんじゃない。生きるのが怖いんだ!」




アレン(宮崎吾朗本人がモデル)は死ぬのが恐い。そんな彼に女の子は上のようなことを言いました。もっともらしく聞えますが少し矛盾を感じます。私も死ぬのが怖くてたまらないから、いつも必死に生きています。もし自分が戦場にいたら、他人を蹴落としてでも「生」に執着するだろうと思われます。そんな私が「あなたは生きるのを怖がっている」といわれれば、それは「違うよ」と言いたくなる。アレンもクモを「死ぬのが怖い」だから「永遠の命」がほしい。アレン、クモ、そしてわたしの3人は決して生きるのが怖いわけではありません。逆に「死」を強く意識している私たちのほうが「生」に対する執着心や生きる歓びを実感しているのです。

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たとえば「ソウ」という映画は末期がんになったジグソウという人間が主役です。ジグソウは死に怯え、生きることに激しい憧れを持つようになる。


しかし世の中は、生きていることをなんとも思っていない人間たちがいかに多いかに気がつき、激しい嫉妬を覚える。そして命を粗末にする人間に死のゲームを与えはじめる。

誰もが命を粗末にしているとは思わずに生きています。しかし「自分らしく生きられないならば死んだほうがましだ」こんなことをいう人は多いと思いますが、それは「生」よりも自尊心が上回っているだけのように感じます。彼らは「死」に接したことがないために「生」を実感できない。これから死んでいこうとする末期がんのジグソウにとって、「生きる」ことに意義がないと生きる意味がないと思う人間がいることじたい許せないのでしょう。そのような人間としての尊厳と傲慢さが入り混じった人々に対してジグソウは「死」が迫ってくることを教えると、彼らはみじめなまでに生に執着するようになります。「おまえら、どうだ?生きることに意味は必要か?」「生きているだけで素晴らしいということに気がついただろう、でも遅い、後悔して死ね」というのがジグソウです。



これは人間心理の真実です。

人間は本来はどんな屈辱を受けようが生きていたいのです。息をしているだけで涙が出るほど嬉しいものなのです。戦争中は自殺率が非常に低いのは「死」をいつも身近に感じているからで、生きているだけで充実できるからです。それなのに現在は「死」と接する機会がないために、自分の透明な存在に悩んで自殺する人までいる。「存在なんてどうだっていいじゃないか?お前は生きているんだからそれだけで満足できないのか?」末期がんのジグソウの叫びが聞こえてきそうです。彼の行為は逆ギレではありますが、人々に「死」と接する機会を与えたことにより、結果的に「生」の持つ意味を教えたのでした。


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インドという見栄えの良くない国が、多くの人を惹きつける理由はあの国は生と死が混沌とした世界だからです。ガンジス河では「死」はいつも開かれている。死は不吉で哀しいものではなく、生活の一部になっている。そしてそこで死と接すると、死は怖いものではなくて、「生」の一部だと思えてくる。そうすると不思議な充実感がわいてくる。
このように「死」を意識することは非常に大切だと思います。
*次回はアレンの「影」についての話です。
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プラス思考が大切だとよく言われます。しかしプラス思考はいつまでも続きはしない。この本はちょっと人生に疲れた人におすすめできます。ブッダも親鸞も、究極のマイナス思考から出発したのだと著者は言います。悲観的に生きろという意味ではありません。自分の身にふりかかるすべての災難や不幸をあるがままに受け入れろという意味だと思います。

人生はつらい、という前提にたって生きなさいということ。
人は誰もが泣きながら母親のおなかの中から生まれてきます。人生はつらいのが普通なんです。「なぜこんな目に私があう?」と嘆くよりも、これが人生なんだと受け入れなさい・・・と、このように著者は静かに語る。そしてつらい人生を生きているあなたはそれだけで立派なんだ
生きているということは
もうそれだけで偉いんだ

と説いています。

日本の自殺者は3万人を越える。
1日に100人前後の人が自殺しているという現実。しかしそれは自殺に成功した数であり、自殺未遂者はその倍以上いるから1日に200人を超える人が日本のどこかで自殺をしているのですね。五木氏も二度自殺をしようと思ったことがあると告白している。三島由紀夫も川端も太宰もヘミングェイも芥川もみんな自殺でした。とくに作家は自殺が多い。私は人間の精神の向上が人間としての本能を低下させているようにいつも思います。だから生きているだけで満足しなさい、といわれても無理かもしれない。しかしもう少し、人生のハードルを下げてみると少しは生きやすくなるのではないでしょうか。
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絵本です。一言でいえば、飛ばなくなった鳥の話です。飛べない鳥=鬱にかかってしまった人間(力が出なくなった人間) というメタファー(隠喩)になっていた。 
興味深いのは、飛べなくなった鳥が

「おれ様は鳥なんだから飛べるはずだ」
と、飛べない自分を否定しているところです。

それがあるとき、

「俺はやっぱり鳥だけど飛べないのだ」
と、自分の現状を認めたとき、ようやく飛べるようになります。


ある意味でこれは大きな人生の教訓であると言える。

普通、人は自分の身に訪れた不幸をなかなか受け入れることができない。しかし現実を受け入れることが再生の出発点だと思うのです。訳者は五木寛之。
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