カテゴリ:芥川賞受賞作品(11)( 10 )

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芥川賞受賞作品である。この小説には次のような制約があるらしい。

 ・横書き
 ・固有名詞を使わない
 ・ひらがな多用
 ・カタカナを使わない
 ・記号を使わない


以下、本文抜粋。

aというがっこうとb というがっこうのどちらにいくの
かと,会うおとなたちのくちぐちにきいた百にちほどが
あったが,きかれた小児はちょうどその町を離れていくと
ころだったから,a にもb にもついにむえんだった.その,
まよわれることのなかった道の枝を,半せいきしてゆめの
中で示されなおした者は,見あげたことのなかったてん
じょう,ふんだことのなかったゆか,出あわなかった小児
たちのかおのないかおを見さだめようとして,すこしあせ
り,それからとてもくつろいだ.そこからぜんぶをやりな
おせるとかんじることのこのうえない軽さのうちへ,どち
らでもないべつの町の初等教育からたどりはじめた長い日
月のはてにたゆたい目ざめた者に,みゃくらくもなくあふ
れよせる野生の小禽たちのよびかわしがある.



読めるかよ。
いや努力すれば読めるかもしれない。しかしなぜ読者が我慢しなくちゃいけないのだ?
根本的な問題として、小説は面白くないと意味がないとおもう。
「日本語の限界に挑んだ」とか言っているが、むしろ挑むな、と言いたいぐらいだ。

日本語の素晴らしさだとか、日本文学バンザイだとかそういう理由で
この小説を選考委員が評価するのは分るが
じゃあ選考委員はこのあとこの作者の小説を読み続けるのか?
と考えたらおそらく読まないに違いない。

魂をたましいとひらがなで書くと浮遊感覚が芽生えると評価されているらしいが
私から言わせるとやかまわしいわと思えることでも
そもそも「文学」とは芸術そのものなわけで、人にはいろいろな見方があるのも分る。

作者は早稲田のエリートだ。
いつも不思議なことだが小説には学歴がつきまとう。

もし、当該小説を、小学生がひらがなで書いて東大生が書いたと宣伝すれば
どうなるだろうか?
おお!このひらがなは、見事な浮遊感覚だ!こんな笑い話のような出来事が実際に起きそうだ。



ピカソの絵も同じだ。
小学生の書いた絵をピカソと言えば10人中3人は
これは奥が深い作品だ!とほざくに違いない。


しかしもしこの小説をほめろと言われたら私はこう言う。
「読破したら80歳でエベレスト登山に成功するのと同じくらい偉業ですよ!」


読みにくい小説というのは必ずしも需要がないわけではない。
読者はチャレンジ精神を持っているからこの小説だって読まれ続けるだろう。
そうだ、読書はある意味で登山と同じなのだ。

意味を理解できずに読み終えたとしてもそれは読破したと胸を張って良い。

「ぼく、このあいだ、え~び~さんごを、よみおえたよ」と同僚に言ったら
おそらく10人中7人に尊敬されることは必至である。
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芥川賞受賞作品です。どういう内容か一言で言います。
主人公は、お母さんが大嫌いだ、という話です。こういう作品は、芥川賞好みです。純文学の頂点に立つと言われるドストエフスキーの最高傑作「カラマーゾフの兄弟」だって、一言でいえば、どうしようもない父親と、それを憎む息子の話です。この作品は、どうしようもない母親と、それを憎む娘の話です。
テーマは重いですが、やはり現代人の心の暗部には響く。
殺人事件の、約4割近くは、親族内で起きていることからも分かるように
つまり共感できる部分がどこかにある。


日本人は我慢して、我慢して、耐えようとするところがある。


そうやって家族に対する憎しみを、ますます蓄積していく。

この小説を読んでいて、やはり一番印象に残ったのは、
主人公が、なぜ家族(母親)から離れようとしないのか?ということに尽きます。

彼女は、「暇で死にそう」
という母親から電話がかかってきても、歯を食いしばって耐えるのみ。


そうやってますます自分の心の中で、母親に対する憎しみを募らせている。

この小説で繰り返し、聞こえてくる主人公の母親に対する心の罵倒
「低能な女」
「昔の栄光に浸っている哀れな女」
「努力をしないでお金を欲しがる図々しい女」

第三者の読者の立場で言わせてもらうと、それはもはや愚痴に近い。

それだったら、空中庭園で小泉今日子が言い放った名せりふのように
「お母さん、暇なら、もう死んじゃえば?」と言えば良い。
そうすれば母親は、親不孝な娘だと怒るかもしれないが、
母娘の関係に変化が起きるはずだ。
それができないのはこの女性(すなわち作者)が偽善を抱えているからだと思う。


家族だから縁が切れないという発想が、勝手に自分を追いつめ、憎しみだけが蓄積され
いつしかそれが大爆発を起こし、その結果、家族内で誰かが殺されることになる。

強盗殺人よりも、家族殺人が多いわけは、まさにこの小説の主人公のように
そこから脱出しようと思わない、または脱出できない、もしくは脱出してはいけないことだ
と思い込むことに原因があるのだと言いたい。


また、エゴの化身である母弟に対して、エゴの欠片もない白痴の夫が対比して描かれている。
しかし、白痴なのに愛にあふれていたフォレストガンプや、ムイシュキン公爵とは違って、
この夫は、妻も妻と認識していないような、愛という感情が欠如しているような、人形のような人間のように見えてしまう。
従ってこの小説で説明されている「知らない人からも自然に愛される人物」としては、物足りなさを感じる。

しかし、夫の白痴化が、母弟からの、1つの脱出手段であった点も見逃せない。

印象に残ったのは、主人公が、そんな夫を愛しているという心理描写が、随所に散りばめられている点です。主人公はそんなに「いい人」なのか?と疑ってしまう。
好意的に読むと、常に自分は、より良き人間でありたい、という信念があるのかもしれない。

しかし私には偽善とうつる。
少なくとも、このような主人公の潔癖的な性格が、ソドムの住民たる母親や弟のふるまいに対して、ことさら許せないと思うのかもしれません
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芥川賞選考委員でいつも悪態をつく者が2名いる。宮本、石原の2人である。
毎回、芥川賞の受賞があるが、村上龍や山田詠美という選考委員はいつもほめる立場だ。
しかし石原、宮本の2人は貶しまくる。そういう図式が成立しているようだ。
「喝」をいれるおじさん役とおもえばそれまでだ。

最初に言っておくが私は石原、宮本ともに嫌いではない。
当たり障りのない毒にも薬にもならないお世辞の批評よりも、よほどましだからだ。

しかしである。
ノミネートされて落選する作家たちはたまったものじゃないだろうとも思う。
とくに田中氏は何度も落選しているそうだから今回受賞した作品の石原の批評よりも
落選したときの石原の批評を読みたいと思ってしまう。
おそらく、田中氏は、落選を続けたあいだ、殺意すら芽生えるほど攻撃を、
石原・宮本連合軍から受けたのではないだろうか。
ひまがあったら文藝春秋の過去号を図書館で読んでその事実を確認したい。

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それはともかく、トモグイ。これだけ世間を騒がせたわけだから、
1人の読書家としては読まずにはいられない。

父親に対する憎悪。それは伝わってきた。
父親や母親に対する憎悪、というのは正直言って文学の王道だ。
大文豪ドストエフスキーだって父親殺しの物語が最高傑作だといわれている。

トモグイは実の母親が離婚して1人暮らしで「義手」というのがかなりディープだ。
ちょっとやりすぎではないかと思って、笑みさえこぼれてきた。
ただ、父親は早くに亡くなっているそうなので完全な私小説というわけではなないようだ。

ばかだと思っていた義母が、父から離れる決意をしたときに「ごめん」
と謝った主人公(田中)の想いが伝わってきた。
この作者には弱い存在のものを愛おしく思う感情がどこかに感じられる。
痛みを持った人間特有の感情だ。

闇度(病み度)が深ければ深いだけ、文学は成功する可能性は高い。
芥川本人がそうだった。偉大な文学は不幸の中から生まれる。
トモグイは外面描写は常に汚いものを執拗に描ききっている。

こういう小説を読んでいるとなぜか心が落ち着く
わたしは典型的に芥川賞的な不幸の大バーゲンセールを謳う作品が好みのようだ。
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★「蛇にピアス」金原ひとみ→移動 


★「蹴りたい背中」綿谷りさ→移動


★「蛍川」宮本輝移動


★「沖で待つ」 いとやま秋子移動
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ほぼ女性しか登場させていません。
宝塚のような女社会の中で、乙女たちの権力争いの様子が克明に描かれている。

「すみれ組」と「黒ばら組」という2大派閥があって、
派閥のボスの麗子様を失脚させるために、あえてあらぬ噂を利用する乙女たち。
こういう女性だけの集団というのは、毛沢東時代の全体主義のように、
昨日の味方は今日の敵という怖さがある。
つまり、昨日はみんなと一緒になって誰かを追放したのに、
明日は自分が追放される番。
乙女たちにとって、麗子様や主人公に降りかかった噂が
真実だろうが
濡れ衣だろうが関係ない。
彼女たちは標的が欲しかったのです。

全体主義というのは常に異端児を見つけて抹殺することによって連帯感を維持する必要がある。
ユダヤ人を標的にしたドイツ国家も同じです。
乙女たちも同様に、派閥を強固にするために常にいじめの対象を探す必要があった。


ナチスから標的にされて隠れて暮らすアンネと、
乙女たちから標的にされて戸惑う主人公が対比されて描かれている。


つまりこういうことです。
主人公にとって、乙女たちという存在はゲシュポタ(ドイツの秘密警察)のメタファーになっているのです。

彼女にとって乙女たちは自分を追いつめて殺そうとする脅威の存在。

そういう背景が前提にあるから、
アンネと主人公の心理状態を同化させる手法が成り立つ。

乙女の集団=ゲシュポタ。
主人公=アンネ。
こういう暗喩的な構図が見えてくる。


また、純小説なのでオートフィクションの形式がとられている。
作者の京都外国語大学ドイツ語学科が物語の舞台となっているようにみせている。

それだけではなく、このような閉鎖的な女性社会のなかで、
作者は実際にそこでいじめををみてきて、もしくは本人自身がいじめにあって、
ナチスに迫害されているユダヤ人を連想したのだと、読者は容易に想像することができる。

いじめの本質は人種差別となんら変らない。

共学をあえて女学校のように描いたのは、当時のナチス社会に近づけるために、
より閉鎖的な社会にしたかったらではないかと思う。

鉛色の空で覆われた暗黒の京都と、陰湿な社会、
その社会から迫害されしアンネと主人公と麗子様。

近年稀に見る完成度の高い芥川賞受賞作品でした。
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若者が正社員を選ばずに、派遣社員を選択する理由は、不景気のせいだけではありません。ナガセは過去に、会社でいやな目にあって退職した。そして再び、正社員になる自信がなかった。私も若いころはそうでした。7年間働いていた会社を辞めたことがあります。

そのとき私は、一生を共にできるパートナー(会社)を見つけるのは、本当に難しいと感じました。会社に裏切られてひどく傷付いたときでした。そして転職活動を開始したときも、果たしてこの会社に骨を埋めることはできるのか?という不安ばかりが頭をよぎりました。


就職というのは「結婚」です。


そして転職というのは「再婚」です。


つまり、正社員になるということは、一生を共にするパートナーを見つける行為です。
結婚や再婚ならば、相手と何ヶ月もおつきあいしてから決めることができます。
しかし就職や転職では、そういうわけにはいきません。
結婚する相手(会社)の素性がよくわからないまま、決めなくてはいけません。
(有名な上場企業なら話は別ですが、通常は上場企業に嫁ぐことはできない)
ほんのわずかな面接や工場見学で、結婚する相手(会社)の何が分かる?
とくに、一度離婚した人、つまり退職した人のことですが、
今度こそは、理想の相手(会社)と再婚(転職)したいと思っているにもかかわらず、
相手のことがまるで分からない。

ナガセのように、前の夫(前の会社)から、DV(パワハラ)を受けて、
離婚(退職)した者にとっては、再婚(転職)は、切実な問題なのです。
そこで派遣に頼るわけです。
正社員になって何度も離婚(退職)を繰り返せば、
だんだん転職(再婚)が難しくなってくるのは当然ですから、
派遣はリスク回避のために、理想的だといえます。
そしてもし、自分がその会社を気にいって、
相手の会社も気にいってくれたら、
そのときは正社員(結婚)にしてもらえないだろうか、
というほのかな期待を抱くわけです。
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芥川選考委員の1人である高樹のぶ子が面白いことを言っている。作家は自分のなかに絶対文学を持っている。たぶん村上龍と山田詠美(ともに芥川賞選考委員)は同じ価値観を持った作家だと思う。2人は全然違うようですごく似た器を持っている作家だとおもう。

そして2人と対極にある器を持っているのが、宮本輝と石原慎太郎である。(同様に選考委員)このお二方は真面目すぎるしガンコすぎる気がする。なんとなく雰囲気が国語の先生みたいというか、そんな感じ。



どうも最近の芥川賞受賞作を眺めてみると、山田詠美たちのグループの意思が受賞に大きな影響をあたえている気がする。



少なくとも石原や宮本のオヤジたちは「蛇にピアス」など絶対に評価しそうにないとは思う。 山田詠美・村上龍VS石原・宮本 という構図がありそう。同じく選考委員の川上さんってどちらかというと、不思議系の作家だと思うのですが、こんな濃い連中とどうやって話し合っているのでしょうね。


受賞するためには、他の人たちとの差別化を図らなくてはいけない。
従って、どうしても文体が奇抜になりがちになる。
しかしそれは一歩間違えればパフォーマンスになってしまう。
そういうときに「けしからん」といって毒舌をふるえる石原・宮本連合軍はやはり必要でしょう。ただパフォーマンスなのか、それともその人が持っている個性なのかを判断するのは難しいでしょうね。受賞作を決めるときの内幕がもっと知りたいです。
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中国人女性の楊逸がついに芥川賞を受賞した。
今回の「時が滲む朝」と前作の「ワンちゃん」で技あり2本を取得し、「合わせ1本」で受賞した印象を受ける。外国人の書いた日本語という目で読むと、どうしても文章のレベルに疑問の声があがるのも仕方ない



しかしよく考えてほしい。
日本人が書いた文章ならば、まともなのか?

率直に言わせていただくと、最近の芥川賞候補作を読んでいると、日本人が書いた日本語のほうが、むしろ違和感を感じる。奇抜すぎて非常に読みにくいのだ。賞を受賞するためには他のライバルたちとの差別化を図らなくてはいけないのはわかる。但しそのために、日本語がパフォーマンスと化している。

それに比べ楊逸の日本語は奇をてらうこともなく、自然体で書かれており、普通に安心して読める。星の数ほど存在する作家志望者たちは、そろそろ日本語で言葉遊びをするのをやめて、楊逸さんを見習ってほしい、と偉そうなことを言ってみる。


日本語の原点回帰を希望する。


また、芥川賞の選考委員である村上龍が、「社会に影響を及ぼす受賞者を選出したい」と考えていることからも分かるように、世間が注目する人材を積極的に登用し、文学界に活力を与えようとしている最近の傾向も、楊逸の受賞に上げ潮だったと見るべきかもしれない。


楊逸氏の描いた「時が滲む朝」だが、1人の中国人が天安門事件で挫折し、その後、日本人と結婚し、日本で家庭を築いていくまでの物語になっている。作者の実体験が色濃く反映されている。もしこの小説が、日本人が中国関係の文献を漁って書いたものならば、まったく価値はない。つまり、何が言いたいのかといえば、純小説で一番大切な要素は、やはり実体験を元にした新鮮なネタなのだ。天安門事件の描写が希薄なのは別にかまわない。なぜなら作者は日本滞在中にその事件をニュースで知っただけだからだ。芥川賞という賞の性格上、実体験以外の出来事を強調して書くとあまりいい事はないと思う。


作者が日本にやってきた当時はタイヘンだったという。夕方5時から朝の8時まで働いて、お昼に日本語学校に通っていたらしい。文革で痛い目もみている。時として芥川賞は、不幸自慢大会と揶揄されることもあるが、「不幸」を小説に転化することができる人が選ばれやすい傾向にあるのは事実。基本的に「不幸」は自分の内面を見つめなおす、きっかけを与えてくれる。その内面を描けばいいのだ。偉大な文学は不幸から生まれるという有名な言葉もあるくらいだ。惜しむらくは、物語が短すぎるという点。せっかく小説家として「いいネタ」を持っているのだから、いつかは、パール・バックの「大地」のような大長編を完成させてほしい。
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美人のうえに、芥川賞を受賞。天は二物を与える・・。
とりあえず、読了後、 おもわず、「めっさ」の意味を調べてしまいました。
これって大阪弁??
娘は喋るときは紙に文字を書いて会話する。
まるで哲学者ニーチェに倣って「沈黙の誓い」をたてているようだ。
この娘の真面目さ、傷付きやすい繊細さの描写が非常に秀逸でした。
以下、選考委員の批評です。


e0065456_20514213.jpg小川洋子氏 「博士の愛した数式」の作家さん。
どちらかというと、ダークな作品が多い。読者に嫌な思いをさせるのが趣味なんじゃないかと疑ってしまった時期もある。

慎重に言葉を編みこんでゆく才能は見事だった。ただもしこれが母娘の関係ではなく、巻子さんの狂気にのみ焦点を絞った小説だったら・・。




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村上氏龍 元祖オレ流の作家。自称天才。ドストエフスキーの次ぎに女性にやさしい作家である。私は支持する。

作者の力量と作品の完成度からすると妥当な結果だといえる。アルバート・アイラーの演奏のような文体だ。ときおり関西弁が挿入されるが、読者のために緻密に「翻訳」されている。




e0065456_20593946.jpg宮本輝氏 国語の先生のように厳格な文章を書く作家さん。

女性が書く小説の素材としては、ある意味陳腐だ。諸手をあげてというわけにはいかなかったが、私も受賞に賛成票を投じた。

しぶしぶ賛成したことがみえみえである。





e0065456_2133671.jpg石原慎太郎氏 東京都知事でありながら芥川賞作家でもある。

受賞と決まってしまった「乳と卵」を私は認めない。1人勝手な調子に乗ってのお喋りは私には不快でただ聞き苦しい。この作品を評価しなかったことで私が将来慙愧することは恐らくない。

もはや毒舌を通り越して中傷に近い。しかしこういうキャラクターだから許されてしまう。
次の選挙で落選してほしいと願うばかりである。


e0065456_21232978.jpg山田詠美氏 今ではすっかり作家としての才能が枯れ果ててしまったが、いつのまにか文壇の大御所になっている。私はこの人の言う事は全て正しいと思っている。彼女が今後の日本文学をリードしていくべきである。

饒舌になりながら無駄口はたたいていない。滑稽にして哀切。受賞作にと即決した。
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文章が個性的だという評価もよく聞きます。
一人称で描かれている。
「俺は楽しかった~」という文章が

俺は僕は楽しかった

というへんな文章で延々と書かれている。
自分のことを「俺は僕は~」と言って話す人なんていますか??
これが個性?パフォーマンスにしかみえませんでした。
非常に読みにくいです。これで芥川賞を受賞したという。

でも納得できないとは思わない。
なぜならそれが芸術のむずかしさなんだと思うから。
作者の感性が、私ではなくて、審査員に受け入れられたということの結果でしょう。



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でもこの人はちょっと気の毒。
芥川賞作家としての知名度よりも
「布袋に殴られた男」として一躍全国レベルの有名人になったように思う。
*布袋・・・ボーイというバンドのギターだった人(たぶん)

実際に私が彼の小説を読もうと思ったきっかけも
「布袋に殴れた芥川賞作家」というニュースを知って興味を持ったからです。



この人は殴られたときも、「俺は僕は殴られた」と言ったのだろうか・・・。
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