カテゴリ:ドストエフスキー(2)( 4 )

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まず、この小説を読む前に自意識とはなにか?ということを調べてから読んだ方がいいです。
また、主人公=ドストエフスキー本人と思って読んでもらって結構です。
偉大な小説家は往々にして過剰な自意識を抱えた人間であることが多い。
三島や太宰、芥川などがその典型です。3人とも自殺しています。
つまり、「自意識」とは苦しみ以外の何物でもない。
さらに若者の死因のトップは自殺です。
その過半数は自意識が原因の自殺です。
ところで自意識過剰とは何か?
鏡ばかり見ている人
お化粧チェックが頻繁すぎる人
そういうふうに解釈している人もいるでしょう。
自意識=自らを意識する時点で苦悩が始まる。
自意識過剰という言葉を一番簡単に説明すると、「自分が他人にどう見られるかを考えすぎること」です。これだけじゃなぜ苦悩したり自殺したりするか分からないでしょうからこれから展開していきます。

「誰かに悪口を言われているような気がする。」←これも自意識の苦しみの1つ。
「悪口は言っていません。誰もあなたのことなんて気にしていませんよ」と言っても、
他人が自分のことを○○と思っている、そういうふうに考えてしまう。
ドストエフスキーの小説でよく目にするセリフ
→「おや、あなた、今、私を見て笑いましたね」
勝手に深読みして自分は侮蔑されたと感じる登場人物たちが多い。
ひどいときには「おはよう」と挨拶しただけで怒り出す登場人物までいる。
このようになぜ、人の目を気にしすぎるのかと言えば、自分に自信がないからです。
なぜ、自分に自信がないのかと言えば、自己評価が低いからです。

では次に「桐島、部活やめる」という映画と自意識について説明します。
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この映画は若者特有の過剰な自意識が描かれています。
学校という場所は、派閥と上下関係が存在する。
その中で生徒たちは、自分が他人からどのように見られているか?
どのように評価されているか?
どのグループに所属すれば評価が上がるか?
そればかり気にして一喜一憂しています。
彼らは格下の生徒を見下し、同レベルの生徒と友だちになり
格上の生徒に媚を売る。
彼らが同じ生徒たちに優劣をつけたがる理由は自分を肯定するためです。
不安から逃れるために自らを区分けし、ランクで理解しようとする。
この年齢の子供たちは自己評価できない。
ゆえに他人の目を気にした行動をするようになり
「この生徒じゃ僕と釣り合わない」
「この生徒と喋ると俺のレベルが下がる」と考え、
自分の立ち位置に神経をすり減らす。

これが自意識の苦しみです。

大人になると、しだいに他人が下す自分の評価よりも、自分自身を客観的に評価できるようになる。そして自分を肯定できるようになる。たとえば根暗なら根暗を受け入れられるようになるし、チビならチビを受け入れられるようになる。背伸びしなくなる。虚栄心は希薄になり、それだけで自意識の苦しみから解放される。

しかしドストエフスキーや三島のように終生に渡って自意識で苦しめられる人はいる。現代ではさらにそういう人が増えている。だからこそ、地下室の手記には需要があるのだ。これは笑い事である。


もう1つ自意識について例題を出して説明します。三島の「金閣寺」に2人の障害者が描かれている。
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そのうちの1人、足に障害を抱える柏木はある女に愛されていた。
柏木はその事実についてこう説明する。
「彼女は俺の内翻足(障害をもった足)を愛しているのだ」 

卑下は自意識の弊害の1つです。

自分が他人をどう思うかよりも、他人が自分をどう思うかのほうが気になる
愛することよりも愛されることに執着する。
そのために自分が他人からどう思われているか徹底的に分析し、勝手に他人の心を深読みし、その結果、被害妄想に陥る。つまり、極端な卑下は強すぎる自意識の裏返しなのである。

それは罪と罰のマラメードフしかり
カラマーゾフの兄弟のフョードルしかり。
極端に自分を卑下する登場人物はドストエフスキー作品の十八番とも言える。
その原点が地下室の手記における主人公であり
だからこそ、本作品はドストエフスキーの作品を読み解くカギとまで評価されている。

地下室の手記の主人公は、自分は賢い人間だが韜晦しているふりをしているだけというスタイルを保ち続ける。なんとか自己を肯定しようとしている。しかし、自分の化けの皮がはがされてしまうことを恐れて世に出られない。現代のひきこもりとは違います。彼のひきこもりは精神的な防御のためのものです。ただ虚栄心はしょせん虚栄心に過ぎず、過剰な自意識を抱える人間は、「自分とはなにか?」という問いかけを100万回繰り返し、その結果として自分を卑下する方向に突き進むのである。
過剰な自意識を抱えるものは、愛してほしいと心の中で叫びながら、実際に愛されるとそこから逃避しようとする。彼らは愛するという本能が希薄でありながら、愛する人から自分がどのように思われているかに執着しすぎるのだ。他人の評価で頭がいっぱいになる。他人の視線に神経をすり減らす。

カラマーゾフの兄弟にはドストエフスキーの父親がモデルのフョードルが登場する。
彼は他人からひっぱたかれるなど侮蔑を受けたら、かえって感激してその相手にキスをしたくなるという男です。道化師と言われています。
その心理もやはり自意識なのです。
繰り返しますが自意識とは、他人にどう見られるかを考えすぎる心理なのです。
相手から殴られて怒ったら相手の思うつぼ、殴られて笑った方が相手の言いなりにならない。これが他人の目を意識したパフォーマンスなのです。一見すると異常に思えますが我々が子供時代から読み続ける漫画の世界では、登場人物は敵から殴られたら常に笑います。
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本来は他人が自分のことをどう思うか気にならないならば、笑う必要がないのです。
殴られて痛いときは素直に顔をしかめればいいのです。
不愉快なことを言われたら怒った姿をみせればいいのです。
しかしここで笑うのが自意識なのです。それが人間の心理なのです。
この自意識こそが人生の苦しみの最大の原因なのです。
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いま、ずっとドストエフスキーの「白痴」を読んでいます。すごく長い小説なので読破するのに2ヶ月はかかるでしょう。だけどこの小説を読んでいるときほど、小説の素晴らしさを実感することはありません。上の写真は不朽に名作「フォレストガンプ」
私は、この作品はじつは「白痴」にすごく影響を受けていると確信しております。

主人公が白痴だからそう言っているのではなく、
ヒロインのジェニーがナスターシャに似ているからそう思うのですね。
救いがたい女性なんですが応援したくなります。
絶対に不幸になってほしくない女性です。
だから、こういう女性が物語のなかとはいえ、悲惨な最期を遂げると
私はマジで3日間ほど食事がのどに通りません。
うつ病になってしまうほど、すごい絶望感に襲われてしまいます。



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「狂った果実」
芥川賞作家の石原慎太郎の作品を映画化したものです。
これは本人が認めている通り、「白痴」のパクリです。(リメイクともいえますが)
しかし、石原は完全な男尊主義者なので、ナスターシャ(石原裕次郎の妻になる人)に対するリスペクトがまったく感じられません。これはダメです。





ドストエフスキーは、たんに女性にやさしいのではなくて
罪を持った女性に無限の愛情を抱えていた作家なのです。
世間では「バカ女」(私が世界で一番嫌いな言葉)という言われ方をする女性に対して
ドストエフスキーは、命の続く限り、必死に擁護してきた人だと私は思っています。
だから私は再読をしない主義の読書家であるにもかかわらず
彼の小説だけはもう何度も再読せずにはいられないのですね。


ナスターシャをみていると
人間は、自意識さえなければ幸せになれるのに
と思わずにはいられません・・・・
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ドストエフスキーはこの作品で、無条件に美しい人間(主人公のムイシュキン)を
描こうとして失敗したとよく言われることがあります。 

私からみると「美しい人間」の定義は、人よって相対的だと思いますので
それも当然だと思います。
作者は、「美しい人」のモデルを、イエス・キリストにしたそうです。
イエスのどこが美しいのか私のような無信仰者にとっては理解できませんが
美しい人を白痴にした試みには大いに共感することができます。

ただし白痴という言葉も、人によって色々な解釈ができるのではないかと思いますので
もっと詳しく説明すると、私の場合、白痴は、自意識のない人というイメージがあります。
子供にはその自意識がまだないから愛されるのかもしれません。
自意識がない=無垢と考えます。 

しかし無垢な子供でも、彼らは無邪気で残酷な生き物です。
まだ傷ついていないので、他人の痛みが理解できない。 
美しい人のモデルとしては物足りないものがあります。 

それで大人で自意識のない人を考えてみると、そういう人はいないと思いますが
探してみると、白痴がそれに当たることに気がつきます。 
他人から自分がどのように思われているかを考えずに
自分が他人をどのように想うかだけを考えている人は
私にとって理想の人間像です。

たとえば、フォレストガンプという映画に登場するフォレストや
同じく映画のアイアムサムに登場するサムが、それに当たります。
フォレストもサムも白痴でした。

彼らは自分が他人からバカにされても白痴なので
他人の目を意識した演技をしません。
それよりも、相手のことばかりをいつも考え、愛そうとする。 
自意識というのは、とにかく自分が良く見られたいという気持ちをおこさせます。
そのために、本来の自分をなかなか見せようとしない。

自意識は虚栄心や見栄を生みます。 

私たちは

自分以外の他人の前では

常に演技している役者

なのだと思う。


白痴は演技をしない。
もちろん白痴である自分を自嘲したりもしない。
白痴はあるがままの自分を見せる。
自意識のある私たちたちは自分を魅せようとする。

ムイシュキンは自分の魅力に気がついていないから多くの人に愛されます。
もし彼が自分の魅力に気がつき、それを魅せようとしたら
それは自意識であり、美しくありません。

この小説では彼を愛するまわりの人たちが非常にあたたかくて私は好きです。
とくにリザヴェータ夫人が抜群に良いです。

白痴を理想の人間の姿と考えたドストエフスキーの
深い洞察力を私は高く買います。
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有名なロシアの作家さんですね。
「罪と罰」よりもむしろ「カラマーゾフの兄弟」のほうが評判は高いかと思います。
私はあまり再読はしないほうですが、この作品だけは
何度も読み返しています。本当に心の底から好きな小説なのです!




じつはドストエフスキーという人は父親を殺されています

彼の父親は暴君だったらしい。 
そして「カラマーゾフの兄弟」は父親殺しがテーマの小説です。
したがって、この作者の実の父親に対する複雑な思いが小説に反映されていると考えるのは不自然なことではないでしょう。
この小説に登場する父親(カラマーゾフ)の息子は4人います。息子たちは、父親を憎んでいたり、軽蔑していたり、同情していたり、殺意を秘めていたりしている。
私は父と子の物語としていつも興味深く読んでいます。
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