カテゴリ:重松清(10)( 12 )

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キリストの世界では自殺は大罪です。しかし実際のところ、自殺というのは、自分の意志ではありません。以前、シャマラン監督の「ハプニング」という自殺を暗示した映画がありました。あれと一緒です。本人は死にたくないのです。しかし風がぴゅっと吹いたら自分の意思に反して自分に殺されるのです。鬱になるな、自殺するな、そんな自殺批評は、まったく無意味です。私は臆病なので死ぬのが恐くてたまらない。いつも健康に気を使ってウォーキングをしている。しかしいつ「ハプニング」の作品のように自分に殺されるか分からないとつくづく思うのです。それが自殺の本質です。

「十字架」と映画「ハプニング」を比較しましたが、もう1つ、「告白」という映画とも比較したいと思います。
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「告白」は生徒に我が子を殺された母親が復讐を行なう話です。「十字架」との違いは、たった1つ。それは自責の念の有無です。「十字架」は誰もが自責の念に苦しんでおり、完全に性善説の立場をとっている。反対に「告白」は性悪説。この映画では、犯人は自分が殺してしまった生徒に対してさまざまな制裁を受けるが、自責の念は全くない。親も子を見殺しにした自責の念はない。ただし彼らは自分を悪だと認識している。(松たか子カッコイイ。髪ひっぱられている生徒、案外、喜んでいるような・・)
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さて自責の念とは何でしょうか?自分を責める気持ちですね。それは自分が悪いと思う気持であり、罪を自覚していることを意味します。十字架とは「自責の念」と葛藤する登場人物を描いた物語です。ここでもう1つ踏み込んで考えます。自責の念がなくても自分の罪を自覚している人はいるか?それはヤクザやマフィヤ、告白の犯人がそうです。彼らは自分を悪だと認識しているが、自分を責めない。そしてここからが大切です。自責の念がなく、さらに罪の意識がない人はいるか?それは偽善者と言います。

基本的に、「十字架」のように、いじめで生徒が死に、その傍観者の生徒が自責の念にかられることはまずないと思う。あのダサい子がついに死んだかと笑いあうだけだとおもう。子供はそんなに大人ではありません。未完成ゆえに子供だと考える。その未完成を象徴するのが傷の少なさなのです。10年足らずしか生きていないからまだ傷が少ない。

憎みながらいじめる生徒などこの世にいない。笑いながらいじめるのがいじめの本質です。

子供の天性の明るさはまだ心の傷の少なさを意味し、だからこそ他人の傷みに鈍感になってしまう。しかしそれが成長するにつれて、心の痛みを覚え、他人の痛みも分かるようになる。その代償として、子供特有の天性の明るさは失われる。
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完全にお涙頂戴の物語になっている。しかし分かっていても興ざめすることなく自然と泣けてくるのは、やはりこの作者の力量でしょう。泣かせの清の異名はだてじゃありません。

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主人公の傷心旅行のお供をするのは、離婚した前妻とのあいだに生まれた実の娘で、2人が旅を通して氷解していくというのが、この物語の1つのミソになっています。小説の構成は、父娘が旅先で出会う人ごとに章が区切られている。

ホスピタルの章では前妻美恵子のおくりびととなる医者夫婦が登場する。
彼らは不治の病になった我が子をボロボロにして死なせてしまった過去がある。

愛する人間が死のうとしている。


そのとき、その死を受け入れることと、諦めることはどう違うのか?


我が子に与えた苦しみは正しかったのか?間違いだったのか?


医者夫婦は我が子を全力で救おうとして娘を苦しませたことを後悔していないという。しかし彼らはホスピタルという新たな道へ進むことによって1つの答えを見つけ出したのだと思う。

交通事故の章では、殺した側の立場で描かれている。殺した父親はもうこの世にはいない。だが車イスに乗った妻と大人に成長した息子の謝罪は終わらない。

悲しみというものは死ぬまで背負っていくものなのかもしれない。


それは被害者にとっても加害者にとっても同じ。


悲しみが消えたから加害者を赦すのではなく、それを背負いながら相手を赦す─。


だから泣けてくる。

オホーツクの章は素晴らしい。亡くなった息子の足跡をたどり北海道を訪れた老夫婦。じいさんの方がかなり生意気ですが、心の傷を見せない所が逆に哀愁を誘う。


そしてそこでみた流氷。ようやく死んだ息子にたどり着くことができた─。


そのとき老夫婦は一気に感情を爆発させる。


これが死の世界だと言われたら信じる。
けれど これが生の始まりの風景なのだと言われても信じる─。


素晴らしい表現です。
今すぐに飛行機で北海道へ飛んでいって、その光景を確かめたくなってきたほどです。
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偉そうな音楽家のじじいや、再婚と離婚を繰り返す負け犬人生を歩んできた美恵子。生意気で不登校の明日香。彼らは外見上は他人に不愉快な印象を与える。しかし内面は誰にも分からない傷を抱えている。それを人に見せず、虚勢を張って生きている。ときどき、同じ傷を抱えた他人をみると極端に優しくなる。そういう人は好きだ。私はそういう人間をみていると無性に応援したくなってくる。
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重松清は子供のころ、きよしという言葉が言えなかったそうです。言おうとしても、
きっきき、きよしっ!とどもってしまうから。作者は吃音でした。

「青い鳥」は泣かせのキヨシの本領発揮。主人公は子供の痛みを理解できる先生です。先生自身が吃音という心に深い傷を負っているので、子供の心の傷に敏感に気がつく。

この小説には痛みを持った子供がゴロゴロ登場する。しかもどれもディープです。
先生を刺してしまった生徒。
親が自殺してしまった生徒。
親が人を殺してしまった生徒。
明るさを失ってしまった子供たちに対し、ふつうの先生だったらなんというでしょうか?


「どうした、おまえ、暗いぞ!もっと元気にしろ」


先生に非はない。先生はCIAの諜報員ではないので、個々の子供の情報を把握するにも限度がある。痛みを持った子供たちと直面して、一番残酷な行動にでるのは、大人よりも、むしろふつうの子供だ。なぜふつうの子供は明るくて無邪気なのか分かりますか?それはまだ人生経験が短くて、大きな心の痛みを受けていないからです。そのかわり、痛みがない分、他人の痛みにも鈍感だ。だから少し変な子を見つけたら、平気で笑いの種にするし、いじめの対象にしたりする。吃音の先生を指差して嘲笑することもある。


(映画化された青い鳥の一場面)
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この小説の特徴として、狡賢い子供や、残酷な子供が多く登場する。
これは重松作品すべてに共通していることですが



子供とは未完成ゆえに残酷な面をたくさん持っている。



重松さんはそれを容赦なく描いていく。つまり子供とは、無垢で傷付きやすい反面、悪魔のように他人を傷つけることもある。痛みを受けたことがないから痛みが分からないのだ。「青い鳥」の章はこういう子供の二面性をしっかり描いている。


親にとって子供は天使。しかし子供にとって「子供」という存在は、時として自分に致命傷を与えるナイフになる。



他人の痛みに気がつかない未完成な子供たち─。
なすすべくもなく仲間はずれにされる無力な子供たち─。
そして孤立する子供たちに対して無知な先生はこう言い放つ。



「協調性のない子だ!」 


むかで競争─。あれこそ学校による学校のための、子供たちに対する協調性の押し売りである。しかしこの短編小説にはハッピーエンドが多い。「おまもり」のラストは現実的にはありえない。それなのに素直に感動させる力を作者は持っている。「ハンカチ」のラストシーンはあざとすぎる。しかし・・・・「ちっちちち千葉っ、ととと知子っ!」もうこれだけで充分。この台詞だけで、笑いながら泣くことができる。



私はこの本を人前で読んでいた。
だから泣くのだけは必死でこらえた。男が人前で泣くわけにはいかないのだ。
しかし涙をこらえようとすると、鼻水が洪水のように出てくる。
人前で泣くのは男として恥ずかしい。
しかし人前で鼻水をぽたぽたたらすのは人間として恥ずかしい。
しかしどうしようもなかった。
これからこの本を読む人に私がアドバイスしたいことは
「ハンカチ」「おまもり」「カッコウの卵」は涙腺刺激度が強烈なので、
くれぐれも人前で読まないほうがいいと思います。

(カッコウ)托卵をする鳥。ようするに無責任な親の象徴として描かれている。
映画「カッコーの巣の上で」カッコーの巣は精神病院のメタファーになっている。
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重松作品の新境地というキャッチコピーのこの本はゲーム化を念頭に書かれた小説で、イメージになる絵を書く人は、スラムダンクという漫画を書いた作者みたいです。どうもドラクエの発想と似ている・・。二番煎じでも面白ければ文句はないのですが、残念なことにこの作品は消化不良で終わっている気がします。











主人公は不死身らしい(苦笑)



彼は一千年も生きているという。おまえはドラキュラか。 
一千年も生きられる、という考えではなくて、一千年も生きなくてはいけないというのがテーマ。
人よりも長く生きるのが哀しいという。かっこいいじゃないですか。

でも秦の始皇帝のように不老不死にあこがれる私には共感できません。
たぶん「永遠の命」が欲しくないという人は、若い人か、大病を患ったことのない人なんではないでしょうか?私だったら、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」の主人公のように、他人を蹴落としても、醜く「生」に執着するはずです。





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重松作品に共通するテーマは、人生は短い、ということだと思う。 
気がつけば俺たちはもうこんな歳になってしまった、
といって過去を振り返るシーンを数多くみてきた。
つまり「限りある人生」を愛しく描いてきた作者が、
「永遠の人生」に苦悩する男を描くことに、非常に違和感を感じるのです。
この作品は、長く生きるのは寂しいからイヤだ、
と言っているようなものです。
したがって生きているだけで人間は素晴らしい
というメッセージがあふれる重松作品とは明らかに異なる。
たぶん悪いのは彼にこれを書かせた人間でしょう。

司馬遼太郎を牢屋にとじこめて、
むりやり「第二次世界大戦時の日本」を書かせるようなものです。

不老不死に関しては、ロードオブザリングに出てくるエルフもそうでしたね?
愛のために限りある人生を選択する─。ああいうのを見ると、
やるねぇ~とは思いますが本当に千年も生きていたら嫌になる?
私はすごく孤独になってもいいから千年生きていたい!
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重松作品でいつも出てくる「帰郷」が大きな比重をしめた物語です。


帰ることができるのは、出て行くからだ


という文章が一番印象に残りました。 
ストーリーは甲子園をめざす弱小野球チームが奇跡的に決勝進出を果たした。しかし決勝戦の前にある事件が起こります。この物語は、その事件をずっとひきづって大人になった元高校球児たちの話です。主人公はその弱小チームの元エース。彼は故郷が大嫌いだったので東京に行った。そしてそこで就職し結婚し子供ができた。しかし中年にさしかかったころ会社からリストラされたので充電と称して故郷に逃げ帰ってくる。

映画「エリザベスタウン」という映画とシュチエーションが似ている。
「エリザベスタウン」は会社をクビにされて自殺しようと思った青年が、自分の父親が亡くなった報を受け帰郷する。そこで昔の仲間たちと会い自分を見つめなおすという話。
熱球は・・・

父親の帰郷、
そして母親の帰郷、
娘の帰郷、
それぞれの帰郷が描かれています。



こうやって考えてみると「帰ることができる」というのは素晴らしいことだと思う。すごく辛いことがあったときに帰ることができる。作者は帰るということは逃げることだという。しかし逃げてもいいんだよという。一番ダメなのは逃げられるのに逃げられないと思いこみ自分を追い詰めてしまうこと。
いつにまして、あたたかい作品でした。
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子供のころ、ドラえもんの登場人物をあだ名にして呼びあっていた同級生たちが、タイムカプセルを開けるために26年ぶりに集まった。ジャイアン(徹夫)は、37歳になった今はもう子供のころのような強さもない。経済状態も苦しい。しかしのびたやスネオの前ではわざと虚勢を張る。

「うん大丈夫だ、オレはまだジャイアンとして認められているぞ」

と安堵する姿が痛々しい。みんなの憧れのしずかちゃん(真理子)は、強くて頼もしいジャイアンと結婚した。彼女も37歳になれば昔のような清純さもなくなり今は離婚の危機を迎えている。しかしのびたたちの前では、いまだにマドンナとして美しさを保っていた。理想のカップルと言われたリーダーのジャイアンとマドンナのしずかは、タイムカプセルを開けるために集まった同窓会では、仮面夫婦として昔の自分を演じていた。すでに2人は離婚の危機に瀕していた。そして徐々に2人のメッキは、のびたたちの前ではがれていくのであった・・。



子供のころはまさか自分が将来リストラにされるかとは思ってもいないだろう
愛する夫から暴力をふるわれるとも思っていないだろう
子供というのは必ずしもみんな夢を持っているとは思わない。
しかし自分が不幸になると予想している子供は誰1人いないはずだ。



作者は冷静に現実の厳しさを描いていく。そして「あなたは今の自分を肯定していますか?」と問いかけてくる。小学生のときには人気者だった子供も大人になればサラリーマンをやって毎日他人に頭を下げて生活するのは当然であり、中年になればメタボリックシンドロームになって醜くなっていく。同窓会で集まったジャイアンたちはそんな現実を噛みしめながらタイムカプセルを開けた。


すると中から担任の女先生の手紙が入っていた─。 


先生はすでにこの世にはいない。殺されていた。そんな先生が手紙のなかから静かに生徒たちに語りかけてきた─。



「みんな、幸せですか?」



重松作品の真骨頂。生きる目的を問いかけた感動作。
これを読まずして重松ファンを語るべからず(なんちゃって)
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小説ではありません。
実際におこった事件に対して、著者が犯人の心のなかを分析していく話です。

事実を伝えるのはニュースの役目
作家が欲しいの事実ではなくて真実
だから著者は犯罪者たちの心の闇を追及していく。

ちなみにワイドショーは考えるふりをして、けっきょく最後に犯人を異常者扱いにして考える真似事をしているだけ。タイトルの「隣人」という意味は犯罪者のこと。つまり犯罪者を理解不能な人間として扱うのではなく、すぐ私たちのそばにいる隣人として考えていくという趣向の本だと思います。そういう作者の本を、一部では、犯罪者に対して甘いだとか、もっと怒りを表さなくては駄目だなんて言っている連中もいますが、それはまったくナンセンスな批評であり、犯罪者を裁くのは小説家の役目ではなく、警察や裁判所の役目なのです。

17歳のバスジャックをした少年。
重松氏は独特の人間の見方をする。彼は17歳という時期は誰にとっても危うい時期だという。17歳は、ちょうどセックスを体験し、家族以外の他人と、はじめて深い人間関係を築く時期だと作者は強調する。しかしそういう大切な時期に、他人と深い関係を築くことに失敗したり、関係を作れなかった人が危ういと作者はいう。17歳になった子供は、はじめて親以外の他人抱きしめ、愛し、そして傷つき、無邪気さを失いますが、他人の痛みを理解し、大人になっていく。
生まれてはじめて他人を抱きしめる時期というのは、この年齢なんですね。

ちなみに、重松氏の異色作「疾走」の主人公シュウジは、15歳という設定ですが、彼は他人を抱きしめることで、誰かとつながっていたいと考える子供でした。

「疾走」には、失踪という意味も含まれていると思います。つまり深い人間関係を築くことができなかった少年の社会からの失踪です。17歳といえば映画「17歳のカルテ」も17歳の危うさを描いた物語として有名です。ライ麦のホールデン君は16歳?彼も大切な時期に、それに失敗した1人ではないでしょうか。
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すいません。
泣きました。
重松さんの自伝小説です。

吃音というと、真っ先に思い出すのが三島の「金閣寺」。
自分の言いたいことが伝えられない苦しさというのが、どれほどのものか健常者には理解しがたいと思います。なにか他人にむかって喋ろうとしても、つまってしまう。そのときに相手の反応が気になって仕方ない。笑われるのではないのか、嫌われるのではないか、そういう思いになってしまう。そんなことは気にする必要が無いと、健常者が思っていても、吃音を抱える本人にとっては過剰なほど自意識過剰になっている。わたしが吃音だったら、金閣寺の主人公と同じように簡単にダークサイドには落ちていたことでしょう。本作は暗くありません。吃音というものを、作者独特のユーモアで自虐的に笑いにしている部分が多いとおもいます。それとこの小説の「北風ぴゅうた」という章は泣けます。ボロ泣きでした。
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短編構成の長編だとおもいます。最後にすべてがつながる瞬間は「ラッシュライフ」を思い出しました。本作はすべての章に共通するテーマが「死」です。 昔の同級生が病気で死んでいく章や、お母さんがガンになって戸惑う息子の章などで構成されています。

なかでも「その日のまえに」「その日」「その日のあとで」という3つの章が
たいへん素晴らしい作品。

大げさじゃなくて泣けます。 

勘のいい人はすでにタイトルをみただけで「その日」というのが何を意味しているのか気がつくはずです。・・・・・。 

そう・・・そのとおりです・・・

「その日」とは「死ぬ日」のことです。
この3つの章は末期がんの妻を看取る夫の視線で描かれています。 「その日のまえに」では、妻がガンを告知された直後の話。夫と妻は、その日が訪れる前に、2人で思い出の場所へと向かいます。「その日」では、ついに妻の最後の瞬間。夫と子供たちは静かにその様子を見守る。 そして「その日のあとに」では、妻がいなくなった後の父と子供の生活の様子が淡々と描かれている。

ここで描かれる「死」は、テロリストが爆弾を放り投げて人を殺すような「死」ではなくて極めて現実的で誰にでも必ず訪れる「死」です。わたし達にもいずれは大切に思っている人の死を迎える時期がくるはずです。いわゆる「その日」・・というものがやってくるのですね。人の死は止めることはできません。ただひたすら見守るしかない。多分私は逃げてしまうかもしれない。「死」から逃げる人間・・で思い出したことがあります。

「秘密の花園」(バーネット原作)に出てくる父親は妻が死んで心に傷を負いました。彼には病弱な息子がいたのですが妻が病気で死んだ直後から息子を避けるようになった。父親は息子が眠っているときだけ我が子の顔を覗いてすぐ出て行く・・。この親の不思議な心理描写をみてとても考えさせられました。これから死ぬであろう人の手をずっと握ってやる(隠喩的な意味で)のは大変苦しいことだと思います。が、それが大切なんだと・・・この小説を読み、真摯に「死」と向き合っている人たちを見てそう感じたのでした。
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どんな小説?と聞かれれば
私は、誤解を恐れずに「となりのトトロ」です、といいます。
(やっぱり誤解されるかな)

とにかく笑い転げながら読みました。何よりも夢があります。
過疎化の進む町に、30年ぶりに、「あの生き物」が現れたという噂が流れます。
それがヒナゴンでした。町の役所には、ヒナゴンを捜索する係りが設けられます。
しかし、ヒナゴンを目撃した人々に話を聞いてみると、曖昧で証拠が無い。

しだいにヒナゴンは、過疎化の町の人たちが
町を盛り上げるために勝手に作り上げた、でっちあげだと思われるようになっていきます。
ちなみに主人公の叔父は30年前、ヒナゴンを見たといって、周りから
ほら吹きのレッテルを貼られて死んでいきました。したがって、主人公(女性)にとって
ヒナゴン問題は、亡くなった叔父の汚名挽回をすることでもあったわけです。

学校の先生は子供たちに、もしヒナゴンがいるならどんな姿をしているか
想像して紙に書いてみろ、と言います。ヒナゴンの存在を絶対に信じていない
女の子がいて、彼女は先生にどれほどしつこく言われても、ヒナゴンを
想像した絵を書くことができませんでした。
ヒナゴンを通じて、子供の想像力不足についていろいろと考えさせられます。 

ラストは怒涛の急展開をみせます。感動しました!

かりにヒナゴンという生物が、やはりいなかったとしても
その存在を、ここまで強く信じきれる人たちが羨ましいのです。

「信じない」ということは、最初から諦めているので心が傷つきません。
しかし「信じる」ということは不安になったり、傷ついたり
泣きたくなったりする感情に近いと思う。
だからこそ、「信じる」ということは大切だと思う。


この小説のテーマは「信じる」ということだと思います。
迷いながらも、強く信じることを貫き通した人たちに、最後に奇跡が・・・・。

この話しは、広島県で起こった実話をベースにした物語です。
とにかく、ヒナゴンが本当にいるのかどうか??
それは最後まで読まないと分かりません。
どうぞ皆さん、この小説を読んで是非その結末を確かめてください!!
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