カテゴリ:角田光代(7)( 15 )

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まず第一印象。文章が硬質になった。カチンコチンになった。
これ以上固くなったら、高村薫になってしまいそうだ。

「角田光代の新境地」というキャッチコピーのとおりに、たしかに今までの彼女が描く「家族」とは違う。

角田はもともとは、家族嫌いの娘が、自分の家に放火して逃げるという大変面白い小説を書いて、
芥川賞候補にノミネートされた。私はその作品を読みたちまち彼女の虜になったのだ。


また映画化もされた「空中庭園」では
キョンキョンが言い放った「お母さん、もう死んじゃえば」
の台詞のとおり、家族の憎悪がむき出しに描かれている。

このように作者が描く家族像はどれもダーク度が高い。
それゆえに私は、作者の家族に対するトラウマやオートフィクション性を感じたものです。

しかしツリーハウスはどうだ?角田の良さ(毒)がまったく見られない。
家族がいい奴ばかりである。まるでディズニー映画のように健全なファミリー物語だ。

タイトルはすごくいい。巧すぎるくらいです。ツリーハウスは、根無し草を暗示しており、
地に足がついていない家族のメタファーとして表現されている。
(ツリーハウス)はかなく崩れ落ちそうな家族をツリーハウスと表現した作者のセンスの良さ。
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上の写真のように、バラバラになってしまいそうな家族が描かれていますが
この家族は、これまでの角田作品のように、家に火をつけたり、
お母さんにむかって死ねクソババアと言ったり、
他人の赤ん坊を盗んだりするわけでもなく、
とてもナチュラルで、団結力も強く、あたたかな大家族が描かれている。
もはやサザエさん一家だ。


この作品の大きなテーマの1つである「逃げる」というテーマは奥深い。
たとえば借金、失業、かけおち。こういう過ちをおかしたとき、家族を放り出して逃げだせるか?

多くの人はモラルに苦しみ、逃げて良いわけがないだろと考え、追い込まれ、鬱になり、
そして自殺する。でも卑怯者になりたくないと考えることが間違いだ。
なぜならば後ろ指をさされることが逃げることの本質なのだ。

映画「かもめ食堂」のように、目をつぶって地図を指差し、「ワタシ、指しちゃったんです♪」と言って、能天気に逃げればいいのだ。逃げることは旅行ではない。それは行方不明になることなのです。
(行方不明を楽しむ3人の女性)
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逃げて、逃げて、自分の愚かさに耐え切れなくなったらそのとき死ねばいい。
だが水戸黄門のじいが言うように人生は苦もあれば楽もある。
逃げて生き延びれば、きっと何かが待っているぞ。

逃げられずに自殺した基三郎、逃げなかったが生き延びた大二郎、
みんなが必死で戦っている最中、死ぬのが怖いという理由で逃げた祖父、三者三様。

結論を言うと、いかに自分勝手になれたかが生死の分かれ目になった。
この小説を読んで、なお逃げることの難しさを実感した人は正しいとおもう。
ツリーハウスは絶望と自殺の本質にも触れている。
どう読むかはやはり人それぞれでしょう。毒抜き角田もたまには良いかもしれない。
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子持ちの専業主婦とはどういう人たちでしょうか?
公園デビューで知り合った主婦と子供の情報交換をする。彼女たちは子供つながりで友だちをつくっていくが、逆に子供同士のつながりがあるから人間関係を断ち切ることができないこともある。この小説は専業主婦であるがゆえに狂気に陥っていく女性たちが描かれており、実際の殺人事件(文京区幼女殺人事件)がモデルになっている。



小説の手法は5人の主婦がランダムに登場する。そのせいで最初はかなり読みにくい。しかし終盤にかけて彼女たちが追い詰められていく段階になるとスピードがぐんぐん増してきて文章が躍動しはじめる。けっして面白いとは言えなかったが考えさせられる話だった。


主婦たちは自分を無意識のうちにランク付けし交際範囲を自ら狭め区分けされた人間関係のなかで生きている。しかし反対に結婚もせずに子供も持たず、独身という自由を謳歌する女性たちが専業主婦と友だちになることはない。



女性を、どこか必死になって区分けするのは女性だ



これは角田光代が言い放った名言です。



既婚未婚、子のあるなし、離婚経験のあるなし、職のあるなし。
そんなものは、焼き鳥でタレが好きか塩が好きかくらいの違いでしかないのに
なぜ女たちは、女たちに優劣をつけるのか?
ひょっとしたら区分け好きの女性がしたいのは優劣をつけることではなくて
自分を肯定することなのではないか?
一昔前に比べたら、女性の立ち位置は本当に千差万別だ。
結婚という形態をとらないまま子を産む人もいるし
三十代で三度の離婚経験を持つ人だっている。
それほど多様化した女性の生きかたを見ていると
自分のやっていることは本当に正しいのか、
つまらない間違いを犯していないかと、どんどん不安になる。
不安から逃れるために区分けをし、自分をランクで理解しようとする。
女が女を区分けするのはそういうわけではないのか・・・・と。



(ズタボロ状態の角田光代氏。彼女の原点はここにある!)
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この物語で描かれている5人の主婦たちはそんな作者の考えを如実に反映している。夫の仕事内容、家庭の経済状態、子供の優秀さ、お互い気にしていないようで、探りを入れあって、嫉妬したり軽蔑したり、自分のランクと比較して安心したり落ち込んだり─。子供を育てるという同じ価値観を共有しあう仲間ではあるが、まるで彼女たちは無人島に置き去りにされた人間の、運命共同体のように逃れようがない濃密な人間関係にどっぷり浸っている。
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最近、角田光代が離婚したという話を聞いて
三月の招待状という離婚をテーマにした小説は
もしかしたら、彼女の自伝小説になっているのかと
思いましたが、どうもぜんぜんちがう。

これがまたとんでもなく、面白くない。
天才角田光代ともあろう者が
まさかこんなにレベルの低い小説を
書くとは思いもよりませんでした。

離婚した夫婦が離婚パーティーを開きます。
それ以外はありきたりな恋愛小説です。
視聴率の低迷にあえぐ恋愛ドラマのような小説でした。
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短編です。すべての章に共通するテーマは悪意。
そのなかで「うつくしい娘」は、角田光代という作家を知るのに一番適していると思います。
この作品は醜く太ったひきこもりの娘を持つ母親の葛藤が描かれています。
母親が美人というのもポイントです。
とても切なく、とても恐い夢のような物語でした。

彼女の最高傑作は「八日目の蝉」であり、
彼女の出世作は「空中庭園」だと私は思います。
しかし彼女の原点は「うつくしい娘」かもしれません。 

八日目の蝉は盗んだ女の子を我が子として育てる母親の物語。
空中庭園は映画化されたときに
「お母さん、もう死んじゃえば」
という女優の台詞がじつにこの小説のすべてを表現していて鳥肌がたちました。
この2作品には「母と娘」というテーマが根底にある。「うつくしい娘」は短編ですが、彼女がずっと描き続けてきた母と娘の葛藤のすべてが濃縮されています。


e0065456_223539.jpg母娘の関係をずっと気にしてきた私としては、あくまでも一般論ですが、両者の関係は親子関係のなかで一番複雑と考えます。
母親が息子のみを溺愛し、娘を知らずのうちに引き離しているケースも多いらしい。
母と娘は友達のような関係になることも多い。しかし複雑になるケースも多い。







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NHKの「抱きしめるというコミニケーション」という公共広告機構のCM。あれは娘を愛したくても愛せない母親を想定したものになっていると私は考えます。
(昔のCMですが)




親が子を愛するのは当然です。
当然だからこそ、それができない母親は苦しんでいる。
人によってはそんな母親のことを非人間だと思うかもしれません。
母親失格だと非難するかもしれません。


たぶんそういう人は角田光代の小説を読んでも何も感じない。
人の持つ欠陥とそれに伴う心の痛みを描くことが純小説の目的だと私は思います。
直木賞作家の彼女が何度も芥川賞の候補になった理由は、
人の心の奥を描くことができる作家だからです。
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実在した事件を、作者の想像力で膨らませて物語にする手法は桐野夏生が最も得意とするやり方だ。「グロテスク」「OUT」のような野心的な作品と同様に、三面記事小説も、被害者と加害者をネタにしている。だからといってワイドショー的な作品になっているわけではなくて、レベルの高いヒューマンドラマ仕立てになっている。この作者らしい点は、出てくる男たちは、最終章を除いて、すべていやな奴だというところではないだろうか。クソッタレの男にボロボロに傷つけられて、しだいに正気を失っていく女性たちの「悲劇」を描いている。


主婦、不倫女、女子中学生、姉、バツイチ女などが、それぞれの章の主役である。
三面記事に載ってしまった女性たちの背景には、それぞれ悲しい事情があった──と、考えるのは、あくまでも作者の想像力。

もしこれが仮に宮本輝だったら「魔性の女」というアプローチで物語を作り出すだろうし、石原慎太郎だったら「女はやはり馬鹿な生き物だ」と言い捨てて、物語すら作り出せないだろう。


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私が村上龍、川端康成、ドストエフスキー、そして角田光代を好きな理由は彼らが女性の持つすべての面をあたたく描くことができるからだ。


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印象に残った章は、女子中学生が担任の給食に薬物を混入した事件。英映画「乙女の祈り」を思い出した。とても切ない。どの章も女性の狂気以上に切なさが残る。
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エッセイでありながら文章のクオリティが非常に高い。ちょっと失礼な比較になるが、エッセイの底辺が山田詠美のポンちゃんシリーズだとすると角田光代のそれは頂点に位置する。

ちなみに角田さんは直木賞作家として有名だが、じつは芥川賞候補に3回もなっている。文学性と娯楽性という相反する才能を同時に秘めている作家はそう多くはない。
今回のエッセイでは、作者が学生のころに、末期がんで亡くなった父親の話が一番印象に残った。以下本文より抜粋。



私が考えていた事は、こともあろうに作文だった、父が死んだ後で書くべき作文だった。父の死をどう書くか、心の中で幾度も推敲していた。父はまだ死んでないというのに。


つまり高校生の角田さんは、父の入院している病院へ毎日見舞いに訪れながら、父が死んだあとに学校に提出する「父の死」というテーマの作文を書いていたらしい。そして予定通り父が亡くなった後、彼女の作文は学校でおおいに評判になり、授業のテキストにも使われたいう。

そんな自分の卑しい行為を、多少自己嫌悪を交えながらも、淡々と描いており、夏目漱石の自己分析を彷彿とさせるほど自然かつ秀逸、冷徹とさえ思えるほどだった。その自己描写の巧さはもはや神の領域に達している。


彼女はまさしく一流の表現者。


その片鱗をこのエッセイで十二分に感じとることができる。ちなみに小説において「愛」と「死」はありきたりだが、やはり普遍的なテーマだと考える。凡人は「死」の前では感情的になって冷静さを失ってしまう。しかし一流の表現者は、それに対して、冷めた目を持って見ることができる。こういう言い方をすると非人間的な印象を受けてしまうが、少し言い方を変えるならば、自分の感情を別の場所から眺めて観察することができる人ではないか。角田さんの非凡さを感じずにはいられないエッセイであった。
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川端賞を受賞した「ロック母」について。
この短編は絶対に読んだほうがいい。
しかし川端康成の愛読者である私にはこの作品がなぜ受賞できるのか理解できない。
業を抱えた女性をやさしく描くのが川端康成だと私は断言する。
(ただし、私は角田光代を信者のように尊敬している)


(ロック母)
「母」はある日、突然神経を病んでしまい、自分と外界に壁をつくるためにある行動を起こした。それが大音量で音楽をかけるという行為だった。すぐ思い出すのは騒音を撒き散らして逮捕された迷惑おばさんのこと、しかし、この「母」の騒音は他人にたいする攻撃のためではなくて、防御のためであった。


この作品は角田作品のなかでは「らしくない」と思う。



きれいにまとめすぎのように感じる。感動的な出産のシーンも血肉が通っていないような気がした。なぜなのだろうか?と考えていたら、ふっと、ジョンアーヴィングの「未亡人の一年」を思い出した。

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その作品は女性の作家が主人公で、彼女は妊娠はおろか、結婚もしたことがない若い娘なのに、中絶した女性を主人公に描いた。すると実際に中絶をした女性などをはじめ、一部の読者から彼女を非難する声があがった。(たしかこういう内容だった) つまり、中絶もしたことがないのに中絶を描いたり、妊娠もしたことがないのに妊娠を描く、または女でもないのに女性を主人公にして乙女心を描く、そのような物語を、机上で空想して描くのは納得できない読者は少なからずいるのではないか。





私自身、作者が実際に経験したことがないことを描いていると、「うそくさい」という偏見を持ってしまうのも事実。
e0065456_20421477.jpgちなみに私は花村萬月氏の小説が大好きで彼を尊敬している。だけど「ゴッドブレイス物語」などを読むと、ついつい、「怖い顔をしたハゲオヤジが女性を主人公にした小説なんて書くなっあほ」と言わずにはいられないのでした。 
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このなかの1つに「ゆうべの神様」があるので是非読んでください。
頼むから読んでください・・・

ぐれた娘が自分の家に放火して逃げるという物語。
これだけ聞くと読みたくなくなる。しかし実際は息ができなくなるほど面白い。
25歳で角田光代が芥川賞にノミネートされた作品である。



この物語は1人の女の子の脱出の物語だと思う。



彼女が本当に逃げて遠ざかりたかったものは「家族」であった。本作品はその「家族」がどれだけ醜悪なのかの描写が延々と続く。独裁者ですぐ暴力ふるう父親、父の死を本気で願う母親、すさまじい夫婦喧嘩、どうして離婚しないのか不思議なくらいに彼ら家族はお互いを憎みあって傷つけあっている。こういうときの子供は悲惨だ。選択権がない。私自身、同じ経験をしてきたので、痛いほど主人公に共感できる。家出は無謀だ。なぜならば、すぐ連れ戻される。「社会」がそれを許さないからだ。子供が親と暮らすというのは、強制的な義務だと私は思って耐えてきた。私の願いはただ1つ、経済的自立であった。社会に出て、自分で生活費を稼ぐことができるようになって、私はようやく「家族」から脱出できたと思っている。言い過ぎかもしれないけど、両親の奴隷から、抜け出すことができた。但しすでにそのとき家族は消滅していたが。

この作品の主人公の娘は、都会の大学に進むことで「家族」から脱出しようと試みた。しかし悲しいかな、彼女は勉強ができない。彼女は横で必死に勉強している学生の姿を眺める。「この学生は合格してこの町から脱出していくだろう、だけど自分は取り残される」という焦燥感を募らせていく。しだいに追い込まれていく彼女の様子がひしひしと伝わってくる。その描写は見事としかいいようがない。彼女の脱出は失敗に終わる。名作「アルカトラズからの脱出」のような爽快感はついに味わえない。しかし脱出に失敗し、追いこめられた彼女が放火するシーンはそれが反社会的な行為だと分かっていながら痛快だった。彼女は「家族」を滅ぼすことにしたのだった。


e0065456_19441094.jpg内田春菊の超ベストセラー「ファザーファッカー」という実話をご存知だろうか?あれも「家族」からの脱出がテーマであった。脱出するために、明朝4時に忍び足で家を出て、駅のプラットホームに行くラストシーンに私は震えた。幼少の頃、「家族」から逃げたくてたまらなかった人間にとって、この手の小説は共感せずにはいられない。子供は親の保護がないと絶対に生きていけない。ただし、子供は親の奴隷ではないのだっ!!。
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「逃げて、逃げて、逃げのびたら、私はあなたの母になれるのだろうか」


というキャッチコピーは秀逸だと思う。
角田さんはいつも娘の視点から物語を書くのですが、今回は母親の視点で描いています。本作は作者が2005年に結婚した直後に書いた長編小説なので、そのせいかもしれません。赤ん坊を盗んで育てるというストーリーは生理的に受け付けない人もいるかもしれません。


ただしこれは善悪の問題ではなくて、女性の本能を描いた作品なんだと思う。


前半は赤ん坊を盗んで逃走した希和子が主人公で、後半は希和子に誘拐された赤ん坊の薫が主役になっている。特に後半は面白い。突然薫が大人になって希和子のことを「お母さん」から「あの人」と呼ぶようになっている。薫は意識的に「あの人」を憎むことによって心の傷を隠そうとしていました。しかし無意識では「あの人」に対して別な感情があることもだんだん分かってきます。このへんの心理描写は非常にうまい。ちなみに角田さんの夫は芥川賞作家ですが、わたしは角田さんこそ純小説の本流だと思う。

「私は母になれるのだろうか」
という言葉は希和子だけではなく、薫の言葉でもあると思う。


これは2人の母親の物語。


薫が母親になろうと思った瞬間が素晴らしい。美しい瀬戸内海を背景に薫は
「この光景を我が子に見せたい」という強い衝動から子供を産もうと決意します。シンプルですがそこに神々しいまでの説得力を感じます。

八日目の蝉というタイトルは、七日間で死んでしまう蝉がたった1匹だけ八日目まで生きていたら逆に寂しくて不幸なのではないか?という問いかけが含まれています。「生きていていいの?」という意味も含まれているかもしれません。


つまり八日目の蝉は、希和子の人生そのものを暗示しているのではないでしょうか。


だとすると希和子の孤独な人生は不幸なのか?
生きていていいのか?

しかし八日目の蝉は他の蝉には見られなかったものを見ることができるのだ、という言葉が出てくる。それが本書の導き出した1つの答えのように思います。


岡山港から小豆島へ向う海路
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岡山港のフェリー発着場の描写はヘミングェイのように外面描写が鋭くて体が震えました。そこで希和子は、太陽の光を浴び金色に輝く海を見て、生命力の塊である赤ん坊を見て、そしてかつて育てた愛する薫を見ている。どんなに辛くても寂しくても生きている分だけ見られるものがある。

あたたかいラストシーンを見ていると、あなたは生きていてもいいんだよ、と赦されているような気持ちになれます。わたしは うれしかった。
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角田光代は大の海外旅行好きである。しかも女性でありながらその旅行の大半は1人旅である。

彼女が海外を旅した回数は30回数回。そのなかで行った国が全部で26カ国。
つまり彼女の旅行は、ほとんど同じところへは行っていない。いつも未知の国へと足を運んでいることが分かる。そのせいで旅行に失敗したことも数多くあることが本書を読めばわかる。

わたしは「読書」と「旅行」を比べると、いつもその類似点の多さに驚かされます。

彼女の旅行スタイルは私の読書スタイルです。
私は基本的に同じ本を読まない。以前読んでとても面白いと分かっている本があっても、限られた読書時間で私が選択する本は、どこの馬の骨かも分からない未知の本を選ぶことが圧倒的に多い。そして読んで「あぁ、おもしろくなかった」と思うことも非常におおい。しかしそれは時間の無駄ではないのです・・。(あえてそのことは説明しませんが) つまりわたしは再読はほとんどしない。わたしは、読書好きの多くの人が再読論者だと知っている。しかしそれでも自分はそういうタイプの読書家ではないと告白します。

本を選ぶ選択と旅行地を選ぶ選択はやはり非常に似ている。

その人の性格が如実に表われると思います。 角田光代の旅行のスタイルにとても共感を覚えたのはそこに自分の読書スタイルを投影することができたから。 彼女はこう言う・・

「旅行」は「読書」と同じくらい個人的なことで、同じ本を読んで感動する人もいれば、まったくなんにも感じない人がいるように、同じ場所を旅しても、印象が絶対的に違う。ときとして見える光景すら違う。さらに読書はもっと刹那的だ。

まさにその通り。彼女は再読論者も否定はしていない。 20歳で読んだ本と30歳で読んだ同じ本は、2度目であってもまったく違う。感性は時間とともに変化します。だから わたしは、再読未読にこだわらず、今読んでいる本は1回きりの大旅行だといつも意識しています。

角田光代のこの本で印象に残ったことがもう1つ。
彼女は旅する前はいつも不安で押しつぶされそうだという。いつも1人旅だし、26カ国も行っていればそのなかに当然治安の悪い国もある。

たとえば「対岸の彼女」のラストシーン。
知っている人は分かるでしょうがあれは彼女の実体験です。
登場人物のアオイは、東南アジアに放浪の旅に出かけ、ラオスで危険な目に遭って人間不信に陥りそうになります。しかしアオイは意を決してヒッチハイクをする。それは人を信じることができるかどうかの賭けでした。辛い目にあったすぐ後に人間を試そうとする著者。そこに、人を信じてみよう、恐れず前に進むぞっ!という彼女の熱い負けず嫌いの感情が伝わってきます。
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