カテゴリ:遠藤周作(8)( 8 )

宗教というのはマルチ商法のセミナーのような全体主義の雰囲気があることも事実で、なかにはキリストなんてどうでもよくて、価値観を共有しあう快楽のためだけに宗教に身をおく人もいるでしょう。遠藤周作は宗教と宗教観は違うという。宗教観は思想。宗教は無意識だと説明する。無神論者について。 無神論者にも二種類あります。ドストエフスキーの小説のように「神なんていない!」と強く出張する無神論者と、神なんていてもいなくてもどうでもいいや、という無神者。日本の場合はほとんどが後者でしょう。ちなみに日本では無宗教の人は多いですが、大半は無意識で「神」を信じているのだと思います。初詣でお祈りするときもそう。意識して「神」に祈っているわけではありませんが、見えない力を信じて、その力に対して、どうぞ今年も健康でいられるようにとお願いする。ばちがあたる、という言葉にも、見えない大きな力に制裁を受けるのではないかという潜在化の意識がある。この無意識の領域を「宗教」だと作者は言っています。
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カトリックの遠藤周作は信仰に迷う人間を一貫して描いてきたように思います。
ちなみにプロテスタントの作家の三浦綾子は、ゆるぎない信仰心を持つ人物を中心に描いてきました。同じキリスト教の信者であっても、2人の描く信者(主人公)は本当に両極端です。
三浦の描く信者は非の打ち所がない。非常に感動的です。逆に遠藤は女性の色気に負けて信仰を捨てる信者など、愚かな人間をずっと描いてきました─。
代表作の「沈黙」は、なぜこんなに苦しんでいるのに神は沈黙しているのか?
という信仰の迷いがテーマになっています。



この人の考えるキリスト教の宗教観は独特です。
抽象的な言い方ですが、それはやさしくて、反宗教的だと思われている実存主義ですらも受けて入れているように感じる。私は共感を覚えます。人間は迷うのです。



しかし実際のキリスト信者の多くは迷っているでしょうか?たとえば「偶像崇拝は罪である」と、彼らが私たちを脅す?のは、「他人の罪」をどうしても放っておけない傾向があるからだと思います。宗教の本質が排除だとことを考えれば、この行動も分かるのですが、彼らは神を信じる気持ち以上に、罪をもった人間をののしることも忘れません。


私は宗教に身を置く人たちの、なぜか豊富な「攻撃性」
というものの原因を考えずにはいられません。


それはたぶん、自分たちがすごく頑張っているせいだと思う。


立派に神の教えを守っているという自負心を彼らはもっている。
そのために自分の罪が見えてこない。
そしてこんな時、なぜか他人の罪がよく見える。


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私にもよくある。
自分が税理士試験の勉強をしても結果が出ないとき
「ちくしょ、こんなに頑張っているのに、なぜだめなんだ」
と自暴自棄になる。
自分は勉強している、のではなくて、勉強をさせてもらっているという考えがない─。
日本という恵まれた環境で、エアコンをきかせて、
3食のごはんを当たり前のように食べられて、
そして健康な状態で、勉強をさせてもらっているという考えです。 
頑張って生きているのではない、生かされているのだという考え。
キリストのこういう考え方はもっともだと思うのです。

つまり、なにが言いたいのかといえば、
がんばっているときは、逆に要注意なんです。

「おれは他の人が遊んでいるときに勉強しているんだ」

と無意識のうちに、がんばっている自分を偉いと思ってしまう。
そういう自負心が他人を下にみたり、
自分勝手な被害者意識へとつながっていく。

「生かされている」という言葉は、ただそう思うだけでは不十分だと分かりました。
前提に自分の愚かさを自覚しなくてはいけないとおもいます。
そのために罪を背負って生きているという教えもあるのでしょう。

遠藤周作が長年描いてきた主人公は、まさに罪を自覚している人ばかりです。
弱くて愚かだけどそういうところに惹かれるのでした・・
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(深い河の舞台:ガンジス河)

基本的に純小説家というのは、初期の頃の作品を越えることができないと思ってたのに、「深い河」は、なんと作者が70歳のときに描かれた作品なんですね。驚きました。これは作者の最高傑作だと思います。ところで小説を書く上で大切なことは「副詞」をなるべく使わないことだそうです。「いらいらと話をする」のいらいら、「つめたく誘いを断った」のつめたい、 などの状態副詞の多用は、読者から想像する力を奪うのでしょうね!副詞を何か別な言葉に置き換えて、読者に想像させなくては小説とはいえないという。映画においてもそれは同じで、哀しいときに哀しい顔のドアップばかりを見せる映像はだめです。たとえば「きれいな花」という言葉について。これは修飾語ですが、花がきれいか汚いかを表現するのに、ストレートにきれいな花、とするのはNG。娯楽の追及には分かりやすさは必要ですが、分かりやすさは想像力を奪う。きれいな、という言葉を使わずに、読者にその花がきれいだと思わせるのが小説の本来の姿なのだと思うのでした。
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夫婦とはなんぞや?

というテーマの短編小説。
そのなかの「日本の聖母」という章は今でも記憶に残っています。
これは歴史ものになっていて
クリスチャンの細川ガラシャと夫の殿様の夫婦仲の話になっています。


遠藤さんの描くガラシャは離婚したがっているガラシャでした。


しかし夫が嫌いといっても相手は天下の殿様です。
妻が「別れてくれ」といって「おう、了解したぞ」と殿様が承諾するわけもない。
そこでガラシャは絶望して、夫の前から逃げ出そうと考える。
遠藤氏のこの小説を読む限り、ガラシャがキリスト教に身をおこうと考えた動機は
夫から逃げ出すこと、すなわち「社会」そのものからリタイヤする目的だったと思う。
いわゆる出家という形で俗世と縁を切りたがった。

ここでガラシャが救いを求めるキリストの修道士さんは、いろいろと言います。

「ガラシャさん、アンタは夫をもっと大切にせんとダメヨ~」

みたいなことを言うのですが、これだけ聞くとフェミニストの私は
「冗談じゃない」とキレそうになりますが・・・・
しかしもっともこの修道士が言いたいことは
苦しみから逃げるためにキリスト教に救いを求めるな、キリスト教は苦しみを避けるものではなく、苦しみを背負うものだ・・・ということだったと思います。
ここが仏教などとは違うところではないでしょうか。 
自殺を禁止しているキリスト教の教えの本質は
「苦しみ」を避けるために宗教は存在するのではない
というメッセージがそこにある気がします。
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戦後まもなくフランスへ留学した遠藤周作の当時の日記です。
(戦後初の給付留学生とのこと)
じつに27歳のときであり、向上心に燃える若者という雰囲気が彼の日記から感じることができます。第二次世界大戦が終わったすぐあとに外国に行ったということで、この本は、敗戦国留学生の旅行日記みたいな感じもする。 やはりヒットラーのドイツほどじゃないでしょうが、「極悪の日本人」というイメージがよその国にはあり、日本人に対する差別がひどかったそうです。具体的に著者のフランス留学の詳細は下記のとおりになります。

フランスの現代カトリック文学を勉強するためフランス船で横浜港を旅立つ。
スエズ運河を航行中、船内ニュースで朝鮮戦争の勃発を知る。
マルセイユに上陸後、ルーアンの建築家ロビンヌ家に預けられる。
リヨン大学に入学しバディ教授の下で勉強する。
2年余りをリヨンで過ごし、フランスで30歳をむかえる。
その後パリに移るが、健康を害してジュルダン病院に入院。
そして帰国。

淡々と書かれた本ではありましたが、旅行の内容はチェゲバラの旅行記みたいにハードです。本にはいくつかの写真がありました。その写真の遠藤さんはたしかに若造です。10代くらいに見えます。髪形がやたらと気合がはいっていて、お洒落にとても関心が強いどこにでもいそうな青年のように見えます。マイヤーやフランソワーズというフランス女性たちとしっかり恋愛もしちゃってます。
青春を感じますね。
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息子と談笑するやさしいお父さんも戦争中では大勢の人を殺し鮮血を体に浴びていた。
また人の命を助ける医者がいる。その医者は戦時中、人体解剖にかかわっていた。

それでも人間なのです。

主役は勝呂という医者。彼は自分の背負っている罪に苦しんで生きていました。

いま、私たちは平和だから人間でいられる。
それだけのことだと思います。人間は環境によっていつでも変化する。環境が変われば人を愛することさえできない。

むかし「すべては愛のために」という恋愛映画を見たとき
アフリカの餓死寸前の難民たちをそこでみました。→チェック。

難民たちをみてわたしは、なぜか分かりませんが・・彼らは恋愛すらできないのだと感じた。難民は愛することよりもひたすら生きることしか頭にない。そしてそれとは対象的にその映画の中のヒロインは大恋愛をし、アフリカの惨状に涙を流し血の通った人間らしさをみせていた。

しかしその人間らしさは極端なことを言えば毎日ごはんが食べられるからなのです。
正常な健康状態だからこそ人を愛せる。


罪を自覚しながら生きている勝呂という医者のほかに戸田という医者が登場します。彼は自分の行動をすべて肯定している。罪の意識が無い。2人は対象的に描かれていました。
この小説を読んでいると、なんの罪も感じずにのうのうと生きている自分に対して罪の自覚を促される。私はキリスト信者ではありませんが「人は誰もが罪人だ」という教えは正しいと思う。 
少なくとも罪を自覚して生きている人は他人にやさしい。
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遠藤周作と三浦綾子は、キリスト教の信者です。
遠藤はカトリック、三浦はプロテスタントだという。
三浦が描く主人公の信者は、けっして神を疑わない。
自分の信仰を強く信じきっている人間ばかりです。
逆に遠藤の描く信者は、常に信仰に迷い続けている。

その代表作がこの「沈黙」でしょう。

沈黙とは、神さまが沈黙していることを意味します。

キリスト教の信者は、神さまがいると思って
いつも祈っているのだと思います。

しかし「沈黙」は

一度でも神さまが私たちの前に現れて助けてくれたでしょうか?

という問いかけが含まれているような気がします。

たとえば、人間は誰もが罪を持っています
だから辛い目にあう、それは試練である、試練のときこそ信仰が試されている
とキリスト教は教える。 
この「沈黙」では、もし信仰を捨てなかったら、仲間を殺す
と脅迫されるシーンがあります。そして主人公は信仰を捨て去る。

もし三浦綾子が同じ状況で、小説を描くならば
けっして信仰を捨てない主人公を描くと思う。
迷い続けて敗北するのが遠藤周作の文学だと思う。

私は遠藤の人間観に共感を覚える。
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歌手のうただひかる(漢字がわからない)さんもこの小説が好きなようです。 

これを読むと本当に自分もインドに行ったような気分になれます。 
遠藤さんがクリスチャンなのは有名な話ですが、
今回は、女のために信仰を失ったクリスチャンが描かれています。
この作家は「沈黙」でもそうでしたが、信仰心がゆらいだ登場人物をたくさん描いてきたと思う。
その根底にあるのは

人間は弱い、人間は罪深い

というもの。

彼の小説には誰1人として信じることを疑いもしない強い信者は登場しない。
常に信仰に迷いを持ち続けている。
信じようと思っても弱さゆえに信じきられない人間が多い。
そしてそういう弱い登場人物を否定するのではなくて肯定しているようなところがある。

私は、人は常に罪を背負って生きているという考え方が好きだ。
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