IE9ピン留め

シークレットサンシャイン



神さまはいるのか?という映画でした。

日本人は無宗教でいる人が多いとおもいます。
しかしほぼ、すべての人間は、神がいるとおもって生きています。

この考えを、宗教観といいます。

たとえば

墓石を蹴り倒したら、縁起が悪い
初詣にお祈りをする、交通祈願をする

かりにキリストや仏さまを信じていなくても
すべての人間が、神さまと意識しないまでも、見えない何かにたいして

悪いことをしたら罰を受ける恐れを抱いたり、
願いが叶うようにとお祈りをしたり しているのです。


(我が子を殺されて宗教に救いを求めた女性、しかしその先に思わぬ展開が・・)


子供が死ぬという事実。殺されるという事実、虐待されるという事実。
これに対して私には疑問がありました・・

大人には業があります。

しかし無垢な子供にはまだ罪はありません。

罪の無い人間に神さまを罰を与えるのか?

そういう疑問です。

神さまはやっぱりいないと思いました。

いろいろな人に、「罪がない人が殺される」という事実を質問したら
いろいろな答えが返ってきました。

もうすこし、深く考えてみようかとおもいました・・・・


# by _hanako311 | 2011-10-26 20:59 | 映画(6) | Trackback

祝 世界農業遺産 

今年も恒例の能登ドライブにふらりと行って来てた。最果ての地である。

その能登の里山里海が世界農業遺産に認定されたらしい。
これはけっこうタイヘン栄誉があるものらしい。先進国では初めての快挙だ。
すなわち、能登は日本離れした原始的な風景をいまだに残しているということである。

たしかに能登はふつうじゃない。あそこは秘境だ。この世の果てだ。
ただし、私がイメージする能登とは「奥能登」のことである。
今回、受賞した「能登」の範囲は、羽咋市以北だ。

ちなみに羽咋とは下の地図の場所だ。羽咋より上が受賞した地域だ。

もちろん、羽咋付近は、私の好きな奥能登ではない。
奥能登(おくのと)は、能登半島の最北部(最奥部)のこと。
行政区域は珠洲市、輪島市、鳳珠郡(能登町、穴水町)だ。

ちなみに能登半島の南部を口能登(くちのと)、中部を中能登(なかのと)と呼ぶらしい。
いずれにせよ、奥能登以外は、単なる日本だ。どこにでもある風景だ。
奥能登だけが日本離れしている。この世の終末だ。
車でまわることができる野外美術館だ。だから好きだ。

自殺の名所、ヤセの断崖。「ゼロの焦点」の舞台となった場所。

数年前に訪れたが、とにかく横殴りに風が異常なくらいに強かった。
あの横風は、おそらく私を海へ突き落とそうという意図があったに違いない。
このへんから徐々に不気味で神聖な「奥能登」に近づいてくる、しかし決して奥能登ではない。
ここは輪島の手前だ。輪島を過ぎてから奥能登だと考える。
だけど、ヤセの断崖あたりから、奥能登の漆黒の美しさが垣間見ることができる。

奥能登手前の海沿いのバス停。このバス停すら1つの美術品だ。奥能登は近い。


奥能登突入。有名な千枚田。これが世界農業遺産受賞の決め手になったかも。
右のほうに移動する車が見えるだろうか?そこが道路になっている。
じつはここを右折してさらにいくと、悲鳴をあげたくなるほど美しい景観があるが
車を停める場所がないので、写真を撮ることができない。


夜の千枚田。ちょっとライトアップ。夜中にここでエンストを起したらイヤだろうな・・
JAFのお兄さんだって来るのがイヤだろうな・・・海が怖すぎる。まるでホラー。


奥能登の宿泊場所で有名なのはランプの宿。まさに日本最果ての地。
お金を出せばすぐに宿泊できるという場所ではけっしてない。運のみ。
ホラー映画の舞台にもなりえる。仕事に落ち込んだときに是非。

ランプの宿。露天風呂。奥能登は存在じたいが美術館だ。


かつてある芥川賞作家が、この地域を旅行し、海面の光を見て、「人を死に誘う」
と言ったことがある。たしかに奥能登は不気味だ。しかし美しい。
断崖を突き抜ける極寒の強風
敵意を持った冷たい日本海、
漆黒の闇夜から聞こえてくるさざなみの唄
風光明媚な孤高の漁村
奥能登へ行くと誰もが詩人になってしまう。まさに文学的な場所なのです。

# by _hanako311 | 2011-10-10 20:49 | 税理士受験日記(21) | Trackback

家族狩り 天童荒太



「家族」という言葉で何をイメージするでしょうか?

愛?

絆?


ふふふ・・
自分で言っておいて苦笑いしてしまう。
おそらく、多くの人は、「家族」とは、苦しみに近いと思っているはずだ。

映画監督の巨匠、スピルバーグはいつも「家族ってスバラシイ!」
という作品ばかり作っているけど、現実はちょっと違うとおもう。
もちろん、サザエさんのような家族も存在するだろう。しかしそれは本質ではない。

下の統計はある政治家が
「日本という国は、家族殺人が多すぎる!」
と苦言を呈したときに注目されたものです。




48.1%
じつは、およそ殺人事件の5割が家族(親族)殺しなのです。
(今も割合は5割前後でしょう)

この小説も、親が子供を殺し、子供が親を殺そうとする話がいっぱい出てきます。
はっきりいってダークです・・・。しかし、これが本質なのです。

ドストエフスキーなどは、ある意味で、暴君の父親がいたからこそ、彼は偉大な作家になりえた。
宮本輝もしかり。心の傷は「文学」においては燃料だ。
芥川賞作家など、ほぼ半分は家族の苦しみを訴えたものが占めるのではないだろうか。
愛があればあるほど、家族に対する苦しみは倍増する。
世の中、家族ほど、自分の心を傷つけられる存在が他にあるだろうか?



家族の絆というものが、表向きではいつも神聖化されている。
だが現実にはその絆から抜け出せないことによる殺人がほぼ半数を占める世の中だ。


「家族」とは、いつも秘密のベールに包まれている。
外からはそこで何が行なわれているのか見えないのです。
子供が親を日常的に殴る家庭内暴力が行なわれていても、外からは気がつかない。
親が子供を虐待していても、外からはワカラナイし、干渉もできない。
性的虐待などもある。

「家族」とは密室なのです。

そしていつも、事件が起きたとき、はじめて真相が表に知れ渡る。

すなわち、子供がインターネットを取上げられたために怒って親を殺しただとか
親がパチンコで夢中になって子供を車の中で死なせただとかそういう事件・・
殺人事件の半分を占めるのは、じつはこういう家族殺しなのです。


ただ、本作品の犯人の心理状況がイマイチつかめない。
彼ら夫婦は、愛する我が子を殺した。
それがなぜ、子を愛さない他人の夫婦に「命をかけて愛せ!」と、のたまうのか?

己が命をかけて我が子を愛せなかったために、
死なせてしまった無意識の思いがあって
それを打ち消すために─
つまり、自分たちは真に我が子を愛していたのだ
という偽りを、肯定化したかったのだろうか・・




# by _hanako311 | 2011-10-07 20:31 | その他の作家(16) | Trackback

アンダーザドーム

小さな町を突如覆った透明な〈ドーム〉。わずかな微粒子を透過するのみで破壊不能、先端は高空に達し、地下深くまで続いている。やがて封鎖された町~


こういうシュチエーションがたまらなく好きです。
たとえば、カミュの「ペスト」のように、閉鎖された空間のなかで、
人間が本性をさらけ出す設定の話、そういうシュチエーションがすきなのです。

じつは私、密室フェチなんですね。

私の好きな映画は、なぜかジャングルが舞台のものが多い。その理由は
ジャングルが1つの密室だからです。
どうやってジャングルから脱出するのかという話がたまらなく好きだ。

もちろん無人島ものも好きです。
閉じ込められてパニックになって最後に脱出してハッピーエンドという話が好きだ。

それとゾンビ映画も密室なんですね。
ゾンビがいる世界は、人間が孤立している。これは密室なんです。
周りをゾンビに囲まれて、パニックになって、本性をさらけだす人間たち。
こういうシュチエーションも好きです。

ただ、密室フェチといっても、
建物の中や、部屋のなかに閉じ込められるというストレートな密室はだめです。
そうじゃなくて、
心理的なものに閉じ込められているという物語が好きなんですよね。

赤川次郎の「夜」。子供のころ読んですごく記憶に残っている密室ホラー小説でした。

たしか、地震が起きて、土砂崩れで1つの村が孤立してしまう話です。
なぜかその村にプレデターのような化け物が住んでいて、村人を襲っていく・・
だけど最後に村の人たちの心が1つになって奇跡をおこすという内容だったような・・


小説や映画をみるとき、自分が本質的にどういうフェチがあるのか自覚していれば、
ハズレは少なくなり、良い物語と出会う機会が増えるでしょう。

# by _hanako311 | 2011-10-03 21:51 | その他の作家(16) | Trackback

ツリーハウス



まず第一印象。文章が硬質になった。カチンコチンになった。
これ以上固くなったら、高村薫になってしまいそうだ。

「角田光代の新境地」というキャッチコピーのとおりに、たしかに今までの彼女が描く「家族」とは違う。

角田はもともとは、家族嫌いの娘が、自分の家に放火して逃げるという大変面白い小説を書いて、
芥川賞候補にノミネートされた。私はその作品を読みたちまち彼女の虜になったのだ。


また映画化もされた「空中庭園」では
キョンキョンが言い放った「お母さん、もう死んじゃえば」
の台詞のとおり、家族の憎悪がむき出しに描かれている。

このように作者が描く家族像はどれもダーク度が高い。
それゆえに私は、作者の家族に対するトラウマやオートフィクション性を感じたものです。

しかしツリーハウスはどうだ?角田の良さ(毒)がまったく見られない。
家族がいい奴ばかりである。まるでディズニー映画のように健全なファミリー物語だ。

タイトルはすごくいい。巧すぎるくらいです。ツリーハウスは、根無し草を暗示しており、
地に足がついていない家族のメタファーとして表現されている。
(ツリーハウス)はかなく崩れ落ちそうな家族をツリーハウスと表現した作者のセンスの良さ。


上の写真のように、バラバラになってしまいそうな家族が描かれていますが
この家族は、これまでの角田作品のように、家に火をつけたり、
お母さんにむかって死ねクソババアと言ったり、
他人の赤ん坊を盗んだりするわけでもなく、
とてもナチュラルで、団結力も強く、あたたかな大家族が描かれている。
もはやサザエさん一家だ。


この作品の大きなテーマの1つである「逃げる」というテーマは奥深い。
たとえば借金、失業、かけおち。こういう過ちをおかしたとき、家族を放り出して逃げだせるか?

多くの人はモラルに苦しみ、逃げて良いわけがないだろと考え、追い込まれ、鬱になり、
そして自殺する。でも卑怯者になりたくないと考えることが間違いだ。
なぜならば後ろ指をさされることが逃げることの本質なのだ。

映画「かもめ食堂」のように、目をつぶって地図を指差し、「ワタシ、指しちゃったんです♪」と言って、能天気に逃げればいいのだ。逃げることは旅行ではない。それは行方不明になることなのです。
(行方不明を楽しむ3人の女性)


逃げて、逃げて、自分の愚かさに耐え切れなくなったらそのとき死ねばいい。
だが水戸黄門のじいが言うように人生は苦もあれば楽もある。
逃げて生き延びれば、きっと何かが待っているぞ。

逃げられずに自殺した基三郎、逃げなかったが生き延びた大二郎、
みんなが必死で戦っている最中、死ぬのが怖いという理由で逃げた祖父、三者三様。

結論を言うと、いかに自分勝手になれたかが生死の分かれ目になった。
この小説を読んで、なお逃げることの難しさを実感した人は正しいとおもう。
ツリーハウスは絶望と自殺の本質にも触れている。
どう読むかはやはり人それぞれでしょう。毒抜き角田もたまには良いかもしれない。

# by _hanako311 | 2011-08-24 21:43 | 角田光代(7) | Trackback

優しいおとな



表紙、個性的すぎる。
ヤロウが主役なので、フェミのワタシにはちょっと残念です。
しかもこの表紙のとおりにむさい男でした。

でも舞台設定に関しては最高です。
桐野さんの小説「リアルワールド」を彷彿とさせる。
未来うんぬんよりも、作者の狙いは、無秩序の空間を作り出したかったのだと思う。
それはカオスです。特に地下描写はわくわくする


イオンが久しぶりに地上に出てきたとき、太陽の光で、ラピュタのムスカのように「目が、目が~」みたいなシーンがあったけどあれはよく考えると怖い。 









むかし、イギリスの映画でディセントというB級ホラーを観たことがあるが、それを思い出した。ああいう地下に長くいたら、モンスターのように本気で目はつぶれてしまうだろう。人間が地底に慣れすぎたらきっと地底人になってしまう。そんなコワおもしろい描写、さすが桐野さんだ。
(映画:ディセント)優しい大人はこの映画のように、地下の世界観が秀逸でした。


# by _hanako311 | 2011-08-23 21:00 | 桐野夏生(9) | Trackback

十字架



キリストの世界では自殺は大罪です。しかし実際のところ、自殺というのは、自分の意志ではありません。以前、シャマラン監督の「ハプニング」という自殺を暗示した映画がありました。あれと一緒です。本人は死にたくないのです。しかし風がぴゅっと吹いたら自分の意思に反して自分に殺されるのです。鬱になるな、自殺するな、そんな自殺批評は、まったく無意味です。私は臆病なので死ぬのが恐くてたまらない。いつも健康に気を使ってウォーキングをしている。しかしいつ「ハプニング」の作品のように自分に殺されるか分からないとつくづく思うのです。それが自殺の本質です。

「十字架」と映画「ハプニング」を比較しましたが、もう1つ、「告白」という映画とも比較したいと思います。





「告白」は生徒に我が子を殺された母親が復讐を行なう話です。「十字架」との違いは、たった1つ。それは自責の念の有無です。「十字架」は誰もが自責の念に苦しんでおり、完全に性善説の立場をとっている。反対に「告白」は性悪説。この映画では、犯人は自分が殺してしまった生徒に対してさまざまな制裁を受けるが、自責の念は全くない。親も子を見殺しにした自責の念はない。ただし彼らは自分を悪だと認識している。(松たか子カッコイイ。髪ひっぱられている生徒、案外、喜んでいるような・・)



さて自責の念とは何でしょうか?自分を責める気持ちですね。それは自分が悪いと思う気持であり、罪を自覚していることを意味します。十字架とは「自責の念」と葛藤する登場人物を描いた物語です。ここでもう1つ踏み込んで考えます。自責の念がなくても自分の罪を自覚している人はいるか?それはヤクザやマフィヤ、告白の犯人がそうです。彼らは自分を悪だと認識しているが、自分を責めない。そしてここからが大切です。自責の念がなく、さらに罪の意識がない人はいるか?それは偽善者と言います。

基本的に、「十字架」のように、いじめで生徒が死に、その傍観者の生徒が自責の念にかられることはまずないと思う。あのダサい子がついに死んだかと笑いあうだけだとおもう。子供はそんなに大人ではありません。未完成ゆえに子供だと考える。その未完成を象徴するのが傷の少なさなのです。10年足らずしか生きていないからまだ傷が少ない。

憎みながらいじめる生徒などこの世にいない。笑いながらいじめるのがいじめの本質です。

子供の天性の明るさはまだ心の傷の少なさを意味し、だからこそ他人の傷みに鈍感になってしまう。しかしそれが成長するにつれて、心の痛みを覚え、他人の痛みも分かるようになる。その代償として、子供特有の天性の明るさは失われる。

# by _hanako311 | 2011-08-18 22:25 | 重松清(10) | Trackback

デジカメおもしろい

ふつうに撮った写真




水彩画設定で撮った写真





他にも油絵設定だとか、いろいろ遊べます。


最近、気がついたこと。
画素が大きい=画質が綺麗とは違うという事実。

# by _hanako311 | 2011-04-19 22:56 | Trackback

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